「武田勝頼」天目山で最期を迎えた信玄の後継者は類いまれな能力と不運さを兼ね備えた武将であった!

武田勝頼のイラスト
武田勝頼のイラスト
 武田勝頼(たけだ かつより)といえば、出来の悪い跡継ぎベスト10の上位に位置するほど、その評判は芳しくなかった。ところが近年の研究で、勝頼はかなり優秀な武将であったことが判明しつつある。

 なぜ勝頼は滅びざるを得なかったのか、その足跡を史料から読み解いてみたい。

母は諏訪御料人

 武田勝頼は天文15年(1546)、武田信玄の四男として生まれた。母は諏訪御料人である。

 ところで、この諏訪御料人は、信濃国(長野県)諏訪を本拠とした諏訪頼重の娘なのだが、このことがのちの勝頼の運命に暗い影を落とすことになる。

 実は武田氏と同盟関係にあった頼重は、信玄に討伐対象とされてしまい、それによって諏訪惣領家が滅亡してしまった、という経緯があったのだ。武田家中でも諏訪御料人を迎えることには根強い反発があったという。そんなこともあってか、勝頼の幼少期に関する記述は極めて少ない。

 『高白斎記』にも嫡男義信などの記述は見られるが、勝頼や諏訪御料人に関する記述は皆無であるようだ。躑躅ヶ崎館で母と共に過ごしたらしいことが判明しているのみである。

諏訪家の家督

 信濃平定が一段落した永禄5年(1562)、信玄は勝頼に諏訪家の名跡を継がせた。これは平定した地域の旧族に子女を入嗣させる、懐柔策の一環と思われる。勝頼は信濃高遠城主に任ぜられ、諏訪姓を名乗るようになったという。

 この頃の勝頼の領国運営についての記述は、それほど多くない。とはいえ、高遠は支城領としてある程度の独自支配権を持っていたとされる。

 どうやら勝頼は武勇に優れた武将であったらしい。勝頼は上野箕輪城攻めにて初陣を飾った際には、長野氏の家臣である藤井豊後を追撃し、組み打ちの末にこれを討ち取っている。そして、続く箕輪城・倉賀野城攻めなどでも武功を挙げているのだ。

 『甲陽軍鑑』において、勝頼は「強すぎたる大将」と評されている。要は、勝頼は知勇に優れているが、勝ちにこだわる面が強く、そのため思慮が欠けるところがあるということだろう。思慮が欠けるという点はともかく、勇猛な武将であったことは様々な史料から読み取れる。この点については後述したい。

義信事件

 諏訪領主として他国から見れば、どちらかと言うと目立たない存在であった勝頼の運命が一変する事件が起きる。いわゆる義信事件である。

 永禄8年(1565)、嫡男義信は今川との外交戦略を巡って父・信玄と対立し、親今川派の家臣とクーデターを謀ったとして廃嫡されてしまったのだ。

甲相駿三国同盟の略系図
甲相駿三国同盟により、義信は今川義元の娘を妻としていた。

 この時点で、信玄の次男・龍宝は盲目のために出家していたし、三男の信之は早世していたから、後継者候補として残ったのは四男の勝頼だけだったのである。

 さすがの信玄もこの大誤算に頭を抱えたことだろう。諏訪御料人を側室に迎えるにあたって、反対する家臣たちが多かったことは先に述べた通りである。その際には、山本勘助が「諏訪御料人の男子は諏訪を継がせればよい」と取りなして納得させたという。しかし、それが水泡に帰してしまうのだ。つまり、家臣団の分裂は既に信玄の懸案事項であったのである。

 ただ、実は勝頼が優秀な武将であることは、信玄も認めていたようだ。駿河侵攻の最中の永禄12年(1569)、勝頼は信玄の甥の信豊らとともに蒲原城攻めに参加し、猛攻の末にこの城を落としている。

 蒲原城は東海一の堅城であり、凡庸な武将には落とせないとも言われていた。それを、さしたる犠牲もなく落城させたのを知った信玄は、強引だと諌めながら、嬉しさをにじませた書状をしたためている。


信玄の後継者

 これまでは、勝頼が後継者として活動し始めたのは元亀2年(1571)頃というのが定説であった。ところが近年、元亀元年(1570)頃には既に甲府に移り、後継者として活動しているという説も浮上している。

 その頃、それを裏付けるかのように、信玄は将軍義昭の側近一色藤長を通じて官途叙任と、偏諱の授与を願い出ている。つまり元亀3年(1572)、信玄が西上作戦を開始した時点で、勝頼は後継者としての地位を確立していたのだ。


 武田勢は、まず徳川領である遠江へと侵攻。徳川方の城を次々と落とし、劣勢となった家康は浜松城に籠城するも野戦へとおびき出され大敗を喫する。世に言う「三方ヶ原の戦い」である。

 その後、病状が悪化する中での強行軍は信玄の命をかなり削ったようで、この直後に信玄は没する。遺言により、その死は3年秘すことになったという。

 勝頼は、父信玄が病気にて隠居したため、家督を相続した旨を同盟国に伝えた。この嘘がばれないよう信玄の花押を偽造し、信玄発給の書状を各地に送るという芸の細かさであった。ところが、「信玄死す」との情報は瞬く間に諸国に伝わったらしい。


長篠の戦い

 窮地を脱した信長・家康は反攻に転ずる。信玄死後の天正元年(1573)、信長は包囲網を張った将軍義昭を河内へ追放した。既に反旗を翻していた義昭であるから、勝頼と結ばれては厄介と判断したのかもしれない。

 その後、信長包囲網に参戦していた朝倉、浅井の両氏も滅ぼし、包囲網は瓦解したも同然となる。この時点で幕府の機構を利用して、信長の権益を削ぐという策は事実上不可能となったのだ。勝頼に残された策が、外征による勢力拡大しかなくなった事は不運としか言いようがない。

 さらに武田家中にも不安材料があった。信玄の重臣であった者たちの中には勝頼と対立する者も多く、家督相続を機に起請文を取り交わして関係修復を試みている。やはり敵将の娘の子という宿命はどうしようもなく勝頼にのしかかってきたのだ。勝頼寄りの家臣たちと信玄以来の家臣との軋轢もあり、まさに内患外憂の状態だったわけである。

 これらの状況から、勝頼が勢力拡大によって家臣たちの信頼を獲得することにこだわるのは無理もないだろう。勝頼は家督相続に伴う混乱を収めると、怒涛の勢いで外征を進めるのである。

 天正2年(1574)2月、東美濃の織田領に侵攻し、あっという間に明知城を落とす。余りの速さに信長は援軍を出陣させることなく岐阜に戻っている。続いて飯羽間城も陥落。ここでいったん甲斐躑躅ヶ崎館に帰陣するも、同年6月には遠江に侵攻し、堅城である高天神を落とし、東遠江をほぼ平定している。

 さらに9月には天竜川を挟んで対陣し、その後は浜松城に攻め寄せて城下に放火している。この猛攻に信長は上杉謙信宛書状にて、「四郎は若輩ながら信玄の掟を守り、表裏を心得た油断ならぬ敵である。」と述べている。

 私が注目するのは「信玄の掟を守り」「表裏を心得た」というくだりである。以前はともかく、家督相続後の勝頼は「強すぎたる大将」ではないように思えるのは私だけだろうか。これ以降、織田徳川連合軍は本腰をいれて武田と対峙せざるを得なくなったのである。

長篠の戦いマップ(長篠城ほか)。色塗部分は三河国。青マーカーは長篠合戦直前における武田方支配の城、赤は徳川方の城

 天正3年(1575)、勝頼は家督相続後のどさくさに家康に奪還された長篠城を取り返すことに着手し、5月には1万5千の大軍で長篠城を包囲した。

 長篠城は兵数500人と寡兵であったが、鉄砲200丁と大鉄砲を装備し、周囲を谷や川で囲まれた難所であったとされる。ただ、勝頼はそんなことはとうに知っていたと思われる。

 信長と家康は、長篠が攻め込まれることを予測して早々に援軍の準備をしていた節がある。勝頼は敵の援軍が来る前に長篠城を奪還して、引き上げる策だったが、予想外に早く織田徳川連合軍3万8千の援軍が設楽原に到着してしまったと私は見ている。

 ところで、設楽原が丘陵地がいくつも連なる特殊な地形であることはあまり触れられない。信長がこの窪地に途切れ途切れに布陣させたため、武田方は兵数を少なく見積もってしまったという説も存在するが、私はこの説を支持している。もし、勝頼が相手の兵数を正確に把握していたなら不利を悟って撤退した可能性が高いと思われるからだ。

 この武田方の謀報力の欠如は謎だが、勝頼はまんまと設楽原におびき出されることになる。これをみた信長は長篠城を包囲していた武田軍2000に奇襲をかけた。結果、長篠城包囲軍は壊滅し、退路を塞がれた武田本隊は織田徳川連合軍と決戦に臨まざるを得なくなったのだ。

 勝頼は大敗し、一説には1万人もの戦死者を出したとも言われる。これまで、この戦いは武田の旧戦法と織田徳川の新戦法の激突とも言われてきた。しかし、近年の研究でこの定説も否定されつつある。

 まず、鉄砲についてであるが、武田方も相当な数の鉄砲を装備していた。史料によるとその数は兵数のおよそ10%であったとされ、織田徳川連合軍も同程度の比率であったという。武田方も1000丁ほどの鉄砲を持っていたことになり、鉄砲軽視であったとは言えないだろう。両軍の違いは何かと言うと、火薬の量だったのである。

 織田徳川連合軍は潤沢に火薬を用意できた一方で、武田軍は決戦序盤で火薬が尽きたものと思われる。事実、勝頼はこの戦いの後、軍役を改訂し、鉄炮一挺につき、2〜 3百発ずつ玉薬を用意するように取り決めているのだ。


武田家滅亡

 長篠の大戦後の同年10月、勝頼は将軍義昭の仲介で上杉謙信との和睦を成立させた。これは武田にとって朗報であったが、3年後の天正6年(1578)に謙信が死去すると状況は一変する。跡継ぎ問題から北条から養子に出されていた上杉景虎と上杉景勝との間で「御館の乱」が起きたのだ。

 同盟国である北条氏の要請もあり、景虎方の援軍として越後に出兵した勝頼だが、景勝から和睦を持ちかけられてこれを承諾。最終的には景勝方が勝利したことで北条との同盟が破棄となった。後に北条は徳川と同盟を結び、勝頼はさらに苦しい立場に追い込まれることになる。

 この頃、勝頼が信長との和睦を模索していることは注目に値しよう。この時点で最良の策は外交策であるからだ。ところが、天正8年(1580)に石山本願寺が信長と和議を結び、顕如は本願寺を退去する。石山合戦の終結によって、信長の戦略は武田討伐に動いたのではないか。

 信長は正親町天皇に勝頼を「朝敵」と認めさせる工作に成功し、天正10年(1582)に武田討伐を開始することを家臣に通達している。信長は勝頼の和睦を黙殺したというわけだ。

 同年2月、木曾義昌が織田方へ寝返ったため、勝頼は木曾討伐の軍を出陣させた。ところが同じころ武田討伐軍が四方から武田領に侵攻をはじめていた。この侵攻に配下の武将たちは次々に逃亡、もしくは寝返り残ったのは勝頼の弟の仁科盛信くらいのものであった。

 3月3日、勝頼は未完成の新居城である新府城に放火して、重臣・小山田信茂のいる岩殿城に向かった。ところが、信茂は信長への投降を決断し、進退極まった勝頼は嫡男・信勝や正室・北条夫人と共に天目山を目指すも、滝川一益の追手に捕らわれ、自害して果てた。

 享年37と伝わる。

あとがき

 武田勝頼が暗君でないのは明らかであるが、私が解せないのは長篠の戦いの際の兵数の調査が杜撰であったという点だ。ひょっとして武田方の家臣に調略の手が伸びていたということはないだろうか。

 そしてもう一点、信玄そして謙信が信長・家康にとって都合のよいタイミングで死去しているということである。

 都合のよい死というと、私は家康の関与をどうしても疑ってしまう悪い癖がある。武田滅亡後、家康は武田の遺臣たちを次々に召し抱えているが、あらかじめ密約があったと考えるのは邪推であろうか。




【主な参考文献】
  • 鴨川達夫『武田信玄と勝頼』岩波書店  2007年
  • 笹本正治『武田勝頼―日本にかくれなき弓取』ミネルヴァ書房 2011年
  • 平山優『武田氏滅亡』角川選書 2017年
  • 平山優 『武田三代 信虎・信玄・勝頼の史実に迫る』 PHP新書 2021年

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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