「武田信玄」は不利な状況を抱えながら天下を見据えた名将だった!
- 2022/01/26
武田信玄(たけだ しんげん)と言えば、名だたる名将の中でも、その評価が最高ランクであることで知られる。持病で没しなければ天下も狙えたとも言われるが、彼の置かれていた状況は一言でいえば「過酷」そのものであった。その智謀を駆使して、晩年ながら天下取りに名乗りを上げた信玄の生き様を描いてみたい。
実は二男であった信玄
武田信玄こと晴信は大永元(1521)年11月3日、甲斐守護・武田信虎を父として生を受けた。傅役についてははっきりしていないが、『甲陽軍鑑』によると板垣信方である可能性があると言われる。嫡男晴信と記されることが多いが、実は彼には竹松という兄がおり、生まれた時点では二男であったという。ところが、竹松は大永3(1523)年に7歳で夭折し、繰り上がる形で嫡男となる。
父に疎まれていた?
大永5(1525)年には、弟の武田信繁が誕生。おそらくであるが、晴信は父である信虎とは "そり" が合わなかったものと思われる。信虎とて決して凡庸な武将ではなく、兵法にも長けた戦上手ではあるが、晴信はそれらを駆使するセンスというものが、図抜けて高かったのだろう。優秀すぎる息子が鼻につくという父親は意外に多いように思われるが、信虎は殊にその傾向が強かったものと見える。
『甲陽軍鑑』には、信虎が晴信をどうにも気に食わない様子が記されている。天文5(1536)年11月、信虎は信濃海ノ口城を攻撃した。信虎方の兵数は7、8千人に満たない程度であったという。
これは晴信の初陣であったと言われるが、大雪のせいもあり、城内の3千人ほどの兵を攻めあぐねた信虎は、この天候では敵の追撃もなかろうと、12月に一旦兵を引くことにした。ところがこの際、晴信は殿(しんがり)を願い出たというから信虎は面白くない事この上なかったのだろう。晴信を叱りつけ、最初は殿を許さなかったという。
しかし、晴信はそれに屈せず願い続け、しぶしぶながら許可を取り付ける。もちろん、晴信は殿の必要など感じておらず、敵に奇襲をしかける腹積もりだったのであるが、信虎はそれを見抜けなかったらしい。
見事奇襲を成功させた晴信を、信虎は称賛するどころか非難したというから嫌悪もここまで来れば立派なものである。
一方、家臣たちはと言うと、そのほとんどが表向きでは信虎に同調したように振る舞っていたものの、内心は晴信の大器ぶりに心服していたらしい。
父・信虎の追放
天文10(1541)年6月、信虎は甲斐を追放される。晴信初陣の5年後のことだという。追放と言っても直接甲斐を追われた訳ではない。同年の海野平の戦いに大勝した信虎は、6月4日に晴信と共に甲斐へ凱旋する。ところが、帰国後間もない6月14日、信虎は駿府へ向かって出立したという。
『塩山向嶽禅庵小年代記』によれば、この駿府行きは信虎の息女・定恵院殿が今川義元に嫁いでいたので、所謂「舅入」を行なったものだとされる。
実はこの駿府行きは極秘であり、信虎に近い家臣、例えば駒井高白斎らには伏せられていた。つまり、この時点で晴信方のクーデターは既に実行に移されていたことになる。
6月16日に事の次第を知らされた駒井らであったが、時既に遅しであった。信虎を追放し、晴信の擁立を画策する板垣ら重臣たちは、十分な根回しの上で晴信への家督移譲を極秘裏に進めていたのだ。
6月17日、晴信は躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に入るや否や、甲信国境の「河内境」に足軽を配置して国境を封鎖。かくして信虎追放は成ったのである。
信虎悪行伝説
ところで、偽書疑惑が優勢であった『甲陽軍鑑』だが、1990年代に国語学者の酒井憲二氏の研究によって、その史料的価値が飛躍的に向上した経緯があった。晴信の重臣・香坂弾正の口述によって成立した可能性が高まったからである。しかし信虎追放を正当化するためなのか、1次史料には記述のほとんどない信虎の悪行について書かれている箇所があり、晴信贔屓の側面があることは否めない。ただ少なくとも、信虎追放が各方面から歓迎されていたことは史料から窺い知れる。
『妙法寺記』には、
「此年六月二十四日ニ武田大夫殿様親ノ信虎ヲ駿河国ヘ押越申候。余リニ悪行ヲ被成ヲ候間、加様被食候。去程ニ地下侍出家男女共喜致満足候事無限」
とある。要は、様々な階級の人々が追放を喜んだということだろう。戦続きで疲弊した民を顧みないような信虎の政治を、民は迫害と捉えていた節がある。これこそが信虎悪行伝説の出所だったのではないか。
あわせて読みたい
強敵・村上義清
当主となった晴信は以前からの外交方針を転換させた。上野国の上杉氏、信濃国の諏訪氏との同盟関係を転換させる原因となったのは、家督相続直後の出来事に端を発する。この時期の晴信は、どうも軍事行動を一時停止していたようで、史料にもその記載が見られない。これは、政権移行に伴う内政の様々な問題に対処していたためではないかと思われる。
この空白を察知した関東管領上杉憲政が、武田との同盟を結んでいながら信濃佐久・小県郡に侵攻を開始。この侵攻は、以前武田・村上・諏訪にこの地を追われ上野に亡命していた海野棟綱らを帰還させるためであった。
当然、晴信は兵を動かすことが出来ず、理由は不明であるが村上義清も兵を動かしていない。ここで唯一軍事行動を起こすことができたのが、諏訪頼重であった。諏訪軍は長窪に出陣し上杉の動向を探ったが、その士気の高さに攻めあぐねたという。
そんな折、上杉家で内紛が勃発し、戦どころではなくなった憲政は頼重と和睦交渉を開始。頼重は同盟者である晴信や義清に何の相談もせず、独断で領土分割協定まで結んでしまったのである。
この一連の出来事は、晴信の外交方針を転換させるに十分なインパクトがあった。上杉との同盟関係はもはや無きに等しいだろうし、諏訪頼重は同盟者としての仁義を違えたのである。
晴信は上杉との同盟を破棄し、諏訪へ侵攻することを決定する。天文11(1542)年、晴信は伊那の高遠頼継と共に諏訪への侵攻を開始した。
当の諏訪頼重は、勝手に和睦し領土分割交渉まで行ったことが、同盟者として如何に不味いかということすら分からないでいたらしい。そんなズレまくっている頼重が、晴信の諏訪への侵攻を、当初は全く信じなかったというのも頷ける話である。
初動が遅れすぎた頼重が軍勢を召集しきれず、居城・上原城を脱出するハメになるのは当然の帰結であった。桑原城に逃げ込み籠城したは良いものの、逃亡兵が多く凌ぎきれず遂に開城を決意する。頼重はこの期に及んでもなお、晴信の許しが得られると思っていたというのだから、正直あきれてしまう。
結局頼重は切腹させられ、諏訪惣領家は滅亡する。高遠氏との協議により諏訪郡の分割統治が決定したものの、高遠頼継は諏訪郡の制覇という野望を胸に秘めていた。晴信はそれを見透かしていて、その野望を利用することで諏訪頼重を滅ぼしたのであった。
そんな訳で、同年9月に頼継が伊那郡与城の藤沢頼親らと武田領へ侵攻したことを耳にした晴信は、待ってましたとばかりに出撃したことだろう。実は、晴信は諏訪頼重の遺児寅王丸改め千代宮丸を甲斐に住まわせていた。彼の生母が晴信の妹禰々であったからである。
千代宮丸を擁して出陣した武田軍に諏訪の一族や旧臣たちが続々と味方し、宮川の戦いにて頼継は敗走する。大義名分を利用した見事な戦略であった。かくして、晴信は諏訪郡の平定に成功する。
続く伊那平定において高遠頼継を臣従させ、そのさなかの天文13(1544)年、後北条氏と和睦。この和睦によって、今川氏と後北条氏の関係が一時悪化するが、晴信がこれを仲裁して和睦させている。北条との関係が改善したことで、晴信は信濃攻略を本格化させることが出来るようになった。
そんな晴信の前に強敵が立ちはだかる。村上義清である。義清は信虎の代には同盟関係にあったのだが、晴信が信濃侵攻を進めるに従って関係が悪化したという。
話は少し逸れるが、私がどちらかというとマイナーな戦国武将・村上義清の名を知ったのは今から20年以上前のことだ。当時、戦国オタクまっしぐらの状況であった私は、「信長の野望」というゲームにはまりかけていた。武田信玄でプレーすると、決まって立ちはだかるのが村上義清だったのである。
マイナーながら戦に関する能力値がかなり高かった記憶があった。確認のため調べてみると戦闘85 采配79(信長の野望・覇王伝)と、かなりの強者として設定されていることが確認できた。能力値的には晴信ほどではないが、まだ若かったことを考えると、20歳ほど年上の老獪な義清にかなり手こずったであろうことは想像に難くない。事実二度も大敗している。
一度目は天文17(1548)年の上田原の戦いであり、この戦いで重臣板垣信方、甘利虎泰を失う大損害を被り、晴信自身も負傷したと『甲陽軍艦』には記されている。
二度目は天文19(1550)年の砥石城の戦いである。この戦いでは、後世に「砥石くずれ」と伝えられる程の大敗を喫している。義清は相手の心理的な隙を突くのが天才的に上手く、さすがの晴信もこれにはとまどったのではないか。
しかし、その手の内を一通り経験した晴信は徐々に形勢を逆転させる。この辺りから、晴信の戦い方が変わってきたように思う。調略・虚報・夜襲・忍びなどを駆使することが多くなったからだ。虚報により村上・小笠原両軍を足止めした晴信は甲府へ帰陣し、同年12月7日に嫡男太郎(のちの武田義信)の元服を執り行っている。
翌天文20(1551)年、信濃攻略は一気に進展を見せる。砥石城に調略を仕掛けていた真田幸綱が、5月26日に同城を攻略し乗っ取ってしまったのである。わずか1日の早業であったと『高白斎記』には記されている。
これを機に形成は逆転。8月には小笠原方の安曇郡小岩岳城を陥落させると、小笠原長時は中 塔 城 から 脱出 し 、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼ったという。
これを見た村上方の国人衆は雪崩を打って武田方へ寝返り始めた。義清は堪らず居城の葛尾城を蜂起し、以前から同盟関係にあった長尾景虎のもとへ落ち延びたのである。これが、川中島の戦いの発端となることとなる。
川中島
川中島の戦いには、実は謎が多い。 一応、第5次川中島の戦いまであったとするのが定説ではあるのだが、近年第6次まであったと言う説も有力となりつつある。ちなみに明治時代から昭和初期には、戦いは2度だけであるとする2戦論も存在していたが、戦後は5戦論が主流となったという経緯もある。一番素朴な疑問は何故12年にわたって5回もの戦いを繰り広げたのかというところではないか。
山室恭子氏の『群雄創世記』では、内乱を起こしかねない家臣たちへのパフォーマンスとして両家とも戦いを続けざるを得なかったという説が提起されている。戦によって求心力を保とうという狙いがあったというのだ。
局所戦が多く、両者睨み合うケースが多いことからすると、そういう側面もあったと思うが、歴史学者小和田哲男氏も述べているように、川中島が肥沃な地域であったということが大きいと思っている。
そして長尾家(上杉家)から見れば、川中島は居城・春日山城から距離にして70㎞という至近距離であることから、戦略上失ってはならない地域であった。 甲相駿三国同盟を結んでからは特に、武田が領地を拡大するには、西か北しかないという事情もあり、川中島の戦いは長期化することが宿命づけられていたような気がするのである。
さて、村上義清の話に戻ろう。義清の要請を受けた長尾景虎は天文22(1553)年信濃出兵を決意する。これが第1次川中島の始まりである。
武田方は義清の居城・葛尾城を落としていたが、義清はこれの奪還に向かう。同年5月、武田方は更科八幡の戦いにて義清に敗れ、葛尾城を奪還される。景虎は信濃に侵攻し荒砥城、虚空蔵山城を落城させ、攻勢を強めたが、晴信は景虎との決戦を上手く避けた。景虎もそれ以上深入りせず、双方が撤退することで第1次川中島の戦いは終結する。
第2次、第3次は両者布陣するも、武田・長尾同士の戦いが本格化することなく、局地戦に終始したという。
第3次川中島の戦い後、晴信は出家し「徳栄軒信玄」と号するようになる。
永禄4(1561)年8月、第4次川中島の戦いが勃発するが、これが一連の戦いの中で一番の激戦となったというのが定説だ。ところが、軍師であったという山本勘助が用いようとしたとされる「啄木鳥の戦法」であるが、長尾景虎改め上杉政虎が布陣した妻女山は尾根の傾斜がきつく、挟み撃ちをする際に馬が通れるかという疑問が呈されている。
そして当時の合戦としては、記されている死者数が異常に多く、それほどの損害が出ていながら退却すらしていないなど、不審な点がかなりある。
濃霧での戦いであったということを考え合わせると、実はたまたま敵方と出くわして戦闘が開始された可能性はないだろうかと思い、調べてみると「不期遭遇戦説」というものがあった。
この説は諸々の状況証拠とも符合し、一定の信憑性があるという。問題は、何故このような不審な記述が『甲陽軍艦』に記されているのかという点だ。
ひょっとすると偶発的な戦いで山本勘助や武田信繫など重要な武将を失ったことを秘すために意図的に改ざんされたのかもしれない。これは私の単なる推測であるが、霧の中で両軍が行軍する過程でたまたま上杉勢が武田勢の背後をつく形になってしまったのではないか。
今川家を攻め滅ぼす
義信事件と駿河侵攻
織田信長と信玄の関係は永禄3(1560)年の今川義元の死後から元亀3(1572)年までは基本的には良好であったという。始まりは、今川の衰退を目の当たりにした信玄が今川氏真の力量を疑問視するようになり、今川との同盟を破棄して、信長と同盟を結んだことであった。この外交戦略は悲劇も生んでいる。信玄の嫡男義信は今川義元の娘を正室として迎えており、親今川派として知られていた。そのため、今川との同盟を破棄することに激しく反発し、親今川派の家臣と謀って信玄の暗殺を企てさえしたと『甲陽軍艦』には記されている。
結果的に義信は廃嫡となり、甲府の東光寺に幽閉となり永禄10(1567)年に死去したという。
これにより、信玄の死後は消去法的に四男の勝頼が家督を継ぐことになるのだが、そもそも勝頼の母である諏訪御料人を信玄が側室に迎えることに大きな反発があったとも言われ、勝頼の立場は微妙なものであったという。私には、このことが信玄亡き後の武田家の衰退に大きく関わっているように思えてならない。
とにもかくにも、その後信玄は徳川家康に共同で今川領を攻め取ることを計画、翌永禄11(1568)年から駿河侵攻を開始し、2年にわたって今川領を舞台にたびたび北条軍とやりあっているのだ。
西上作戦
信長を欺いて出陣
元亀3(1572)年10月3日、信玄が信長との同盟を破棄して西上作戦を開始したのは、将軍足利義昭の信長討伐令に応じたためとされているが、どうやらそれは表向きのことだったと思われる。というのも、同年の5月に織田・徳川方の情報を得るべく、奥三河の国衆・奥平定能と接触していることが確認されているからだ。そして、9月5日、浅井長政は家臣の島若狭入道に、信玄が盟約を誓う起請文を送ってきたことを明かしている。
信玄は、前年に信長の延暦寺焼き討ちに対して「天魔ノ変化」と非難したりしているものの、ハッキリした敵対姿勢を示してはいなかった。信玄は、信長を巧みに欺きながら西上作戦を開始したのである。信長にとっては晴天の霹靂だったわけだ。
西上作戦の目的
西上作戦の目的については、信長包囲網への参加を大義名分としながら、上洛が最終目的の作戦であったという説がある一方、徳川家康の領土である三河・遠江への侵攻が主な目的であったという説もあり、ハッキリしていない。私は、やはり最終的には上洛が目的ではなかったかと踏んでいる。そう考える一番大きな要素は「石高」だろう。上洛後の永禄11(1568)年当時の信長の石高を調べると300万石程度であるのに対し、同年の信玄の石高は駿河侵攻で得た石高を加えても100万石程度でしかない。実に、3倍もの差がついてしまっていたのである。
西上作戦を開始し、遠江をあらかた平定し、三河の一部を切り取った時点で140万石程度であるから、他国に侵攻することで信長の石高を凌駕することは無理であろう。この時点での信長の石高の約半分が、畿内をほぼ制圧したことによって得たものであることを考えると、どうしても将軍義昭を推戴し、信長の既得権益を奪う必要に迫られていたのではないか。
武田領内では火縄銃に必要な硝石(黒色火薬の主原料)がほとんど取れなかったから、大陸との貿易に関する権益は喉から手が出るほど欲しかったことだろう。
上洛後の信長は、堺及び東西をつなぐ交通の要所である大津・草津を抑えると、信玄を警戒して甲斐への硝石の流通を遮断する手に出た。信長は信玄が鉄砲の重要性に気づいており、かなり熱心に鉄砲を入手しようとしていた、という情報を得ていたと思われる。しかし武田にとって重要なのは鉄砲そのものではなく、黒色火薬だったのだ。
遠江・三河への侵攻にしても、徳川を圧迫して織田との分断を図るという狙いももちろんあったろうが、裏にはもっとのっぴきならない事情があったのではないか。
それは鉱山の存在だろう。甲斐にも黒川金山があり、豊富な産出量を誇っていたことはよく知られている。金が武田氏の経済的基盤だったわけであるが、黒川金山に依存する経済には不安があったろう。駿河侵攻にしても、海を確保することで塩や海運による利益を得ることができたという点が語られがちである。
しかし、この際信玄が駿河の梅ヶ島金山を直領としていたことはあまり知られていない。信長が将軍義昭を奉じて上洛したのは永禄11(1568)年9月であるが、その直後の12月に駿河侵攻を開始したことを考えると、信長の上洛を信玄は相当意識していたのではないだろうか。
後の西上作戦の布石というだけでなく、次世代の武田家に努めて負の遺産を残さないようにしていたものと思われる。そのような視点で考えると、西上作戦序盤の遠江・三河侵攻は重要な意味を持っていよう。
まずはどちらも海に面していることから、海上貿易による物流及び収益の確保がより強固となることは言うまでもない。さらに三河長篠の北部には津具金山、そして北東には睦平の鉛鉱山があった。信玄は将来の軍事費を捻出する仕組みを作ることに余念が無かったのだろう。三河に侵攻するや、これらの鉱山を開発したのにはそういった事情が関係していると思われる。
そして、野田城は津具金山や睦平と同様に長篠に位置している。私は、それほど大きくもなく、城兵も少ないこの城を越年までして時間をかけて落としたことが疑問であった。もしかしたら、この地域を徹底的に調査するためだったのかもしれない。
信玄の最期
快進撃を続ける武田軍は三河にも侵攻。しかし元亀4(1573)年1月に野田城を落とした辺りから信玄の持病が悪化し、度々喀血するようになったという。しばし長篠城で療養するも回復せず、甲斐へ引き返す途中に没する。享年53であった。徳川・織田にとって、あまりにも都合の良い信玄の死には暗殺説すら存在する。信長が仕掛けたとされることが多いが、「都合のよい死の陰に家康あり」と思っている私は、家康に疑惑を向けたくなってしまうのである。
あとがき
信玄の晴れの舞台は、やはり西上作戦だったと思う。『甲陽軍鑑』にも、「遠州・三河・美濃・尾張に発向して、存命の間に天下を取つて都に旗をたて、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政(まつりごと)をただしく執行(とりおこな)はんとの、信玄の望む是なり」
と記されており、上洛が目的であったとしている。
しかし、『甲陽軍鑑』には別の記述も存在する。 信玄は西上作戦の軍資金のため、税まで徴収して資金をかき集めたが2万1千貫しか集まらなかったというのだ。一方の信長は堺を始めとする畿内の都市に矢銭(軍資金)を課しており、武田の数倍の軍資金を集めることができたという。
どうも、武田は経済的余裕がない状況で西上作戦を開始したようなのだ。その背景には他国への侵攻による経済効果が限界を迎えていたということがあるのかもしれない。上洛により将軍義昭を推戴することで、この限界を打破しようとしていたとは考えられないだろうか。 実は、信玄は信長がうらやましかったのではないだろうか。
【主な参考文献】
- 平山優『武田三代 信虎・信玄・勝頼の史実に迫る』(PHP新書、2021年)
- 柴辻俊六『信玄と謙信』(高志書院、2009年)
- 笹本正治『武田信玄』(ミネルヴァ書房、2005年)
- 藤本正行 『武田信玄像の謎』(吉川弘文館、2005年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄