時代に翻弄された松平容保、その晩年はひっそりと暮らし、下賜の牛乳に涙を零す

晩年の松平容保(『幕末名家寫眞集』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
晩年の松平容保(『幕末名家寫眞集』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 藩祖・保科正之の「藩よりも将軍家への忠節を」。この言葉を守って激動の世に翻弄された会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)は晩年、家臣たちへの思いを胸にひっそりと暮らしました。

京都守護職就任を打診される

 容保は天保6年(1836)12月、美濃国高須藩主・松平義建(よしたつ)の六男に生まれます。弘化3年(1846)会津藩主・松平容敬(かたたか)の養子となり、嘉永5年(1852)2月に家督を継いで会津藩主となります。

 京都守護職時代の写真を見るとなかなかの男ぶりですが、少年時代も周りが騒ぐほどの美少年だったそうです。

京都守護職時代の松平容保(出典:wikipedia)
京都守護職時代の松平容保(出典:wikipedia)

 容保が成年に達したころ、幕末の日本は「尊王だ、攘夷だ」と国を挙げて沸き立っていました。都の京都でも尊攘派の長州の志士が朝廷を牛耳り、豪商など町人から金をせびる輩も多く、市中の治安は大いに乱れました。

 こうした事態に、前の越前藩主で幕府の政治総裁職にあった松平春嶽(まつだいら しゅんがく)ら幕府首脳は、危惧を抱きます。

「これまでの京都所司代では事態に対応できぬ!」

 そんな訳で、京都所司代や大坂城代、京都・大坂奈良などの町奉行の上位にあり、京都の治安を守り、これらを統括できる役職として「京都守護職」を置く事にしました。

 そこで白羽の矢が立ったのが容保です。しかし容保は身体が丈夫ではなく、提示された役料だけでは到底守護職の仕事を賄いきれない、とこの依頼を固辞しました。

土津公を持ち出され、説得される

 どうしても容保に引き受けてほしい春嶽は、会津藩邸に出かけたり要請の手紙を書いたり、と容保を揺さぶります。春嶽の殺し文句は次のものでした。

「土津公(はにつこう)あらせられ候わば、必ず御受けに相成り申すべくと存じ奉り候」

 「土津公」とは、会津藩祖・保科正之(ほしな まさゆき)のこと。徳川二代将軍・秀忠が奥女中に産ませた子、正妻・お江の方を憚って生前は親子の名乗りもせぬままでした。

 しかし三代将軍・徳川家光が実の弟として保科正之を扱い、大藩会津28万石の地を与えます。これを生涯の恩と感じた正之は「会津藩士は自藩の事よりも将軍家への忠節を第一と心得よ」との遺言を残しました。それが会津松平家の家訓第一条です。

「将軍の義、一心大切に忠勤を存ずべく諸藩の例を以って自ら拠るべからず。もし二心を擁かば則ち我が子孫にあらず」
会津松平家家訓 第一条

 この家訓を持ち出されては、守護職就任に傾く容保に依然として反対する家老の西郷頼母らも、黙らざるを得ませんでした。

 守護職に就いた容保は、騒然とした京都で不逞浪人や過激な尊攘派をよく取り締まり、配下となった新選組は多くの浪士を捕まえます。しかし、浪士たちの多くは、のちの明治政府の主力となる長州・土佐出身者であり、彼らは会津藩・松平容保を深く恨みました。

慶喜はさっさと江戸へ戻る

 その後、大政奉還(1867)、鳥羽・伏見の戦い(1868)での幕府軍敗北、と世は急激に動き、徳川十五代将軍慶喜は、滞在していた大坂城から近臣だけを連れてさっさと江戸へ戻ってしまいます。慶喜に従って大坂城にいた容保は、家臣を置き去りにして江戸への同行を求められ、多いに驚き「家老と相談したい」と言いますが、あいにく傍には誰もいません。

 慶喜にせっつかれて仕方なく家臣を残して江戸へ戻った容保は、養子の喜徳(のぶのり)に藩主の座を譲り、新政府に恭順の意を表します。そこへ鳥羽・伏見の戦いに敗れた会津藩士たちが戻って来て、自分たちを見捨てた容保に詰め寄ります。素直に謝罪した容保は彼らを連れて会津へ戻り、新政府に頭を下げます。しかし江戸城が無血開城してしまい、手柄を挙げる機会を奪われた新政府軍の兵士たちは会津へ雪崩込み、容保たちの籠る鶴ヶ城を攻め立てるのです。

 明治元年(1868)9月22日に鶴ヶ城は陥落し、領地は没収されて藩士たちは越後高田へ移され、容保は粗末な駕籠で江戸へ運ばれました。容保の身柄は鳥取藩主・池田慶徳(よしのり)に預けられ、死一等を減じる代わりに家老3人の首が要求され、家老たちは従容として要求に従いました。

謹慎を解かれる

 明治5年(1872)正月、容保は正式に謹慎を解かれ、明治9年(1876)には従五位を与えられます。しかしその後も容保は世に出ることはなく、ひっそりと暮らします。このころ、容保は次のように語っています。

「私のために落命した者は3000人を超えるだろう。怪我を負い不自由な体になった者、頼りの息子に先立たれ寄る辺の無い者、生活に苦しむ者も多い。すべては私の不徳の致すところ。自分一人良い暮らしをしようとは思わない」

 明治13年(1880)、容保は日光東照宮の宮司に任命されます。徳川宗家の菩提を弔う務めは、容保の心に適うものだったでしょう。やがて上野東照宮や会津の藩祖・保科正之を祀る土津(はにつ)神社の祠官も兼ねるようになります。実際には日光へは赴かず、明治21年(1888)までは会津を拠点に暮らし、最晩年は東京に居を移しました。

 明治26年(1893)、容保はすでに回復の見込みのない病の床に臥せっていました。このとき、孝明天皇の女御・英照皇太后(えいしょうこうたいごう)から見舞いの牛乳が下賜されます。容保は泣きながらこれを口にしました。それから間もなく、59歳でこの世を去ります。

 生前、容保は長さ20cmほどの竹筒を肌身離さず持っていました。死後開けてみると、中から孝明天皇の宸筆の書簡と御製が出て来ました。その書簡は文久3年(1863)8月18日の政変で、容保が尊王攘夷派を朝廷から駆逐した時に賜ったものです。

「私は朝敵ではない。世間が何と言おうと天に恥じることはない。亡き孝明天皇が最も信頼して下さったのはこの私なのだから」

 これを心の支えとして容保は後半生を生きたのです。

おわりに

 明治2年(1869)6月、容保の側室が男児・容大(かたはる)を生み、家臣たちはこの子を藩主として家名再興を政府に願い出ます。

 その願いは聞き届けられ、同年11月に会津藩再興が許されますが、領地は陸奥や蝦夷の荒れ地3万石があてがわれただけです。藩士らは藩名を斗南(となみ)と改め、開拓に励みますが、飢えと貧困に苛まれ、廃藩置県後は多くの者がその地を離れました。


【主な参考文献】
  • 八幡和郎『江戸三〇〇藩最後の藩主』光文社/2011年
  • 新人物往来社/編『幕末維新最後の藩主285人』新人物往来社/2009年
  • 河合敦『殿様は「明治」をどう生きたのか』扶桑社/2021年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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