「毛利敬親」明治維新や版籍奉還に貢献して日本の近代化に尽力!毛利元就の子孫にして、幕末長州藩最後の藩主

毛利敬親の肖像(出典:wikipedia)
毛利敬親の肖像(出典:wikipedia)
 混迷を極めた幕末の時代、長州藩を率いて幕府と敢然と対峙し、新時代への扉を開いた大名がいました。長州藩最後の藩主・毛利敬親(もうり たかちか)です。

 敬親は毛利一族に生まれ、幼少期から藩主に近い血筋として周囲の期待を集めました。父の跡を継いで長州藩の藩主に就任、藩政改革をリードして吉田松陰など多くの人材を見出しますが、安政の大獄(1858~59)や禁門の変(1864)で幕府と対立し、朝敵とされてしまいます。

 やがて長州藩の藩政が討幕派によって掌握されると、敬親も活動に協力。外国の要人と面会するなど、歩調を合わせていきます。明治維新後は、先頭に立って版籍奉還を実行。自ら次代の者たちにつなげる形で政治の表舞台から退きました。

 今回はそんな毛利敬親の生涯を見ていきます。

(※毛利敬親はたびたび改名していますが、本記事では原則「敬親」として、表記を統一します)

毛利一族の貴公子

宇部領主の一族に生まれる

 文政2年(1819)、毛利敬親は宇部領主・福原房昌(ふくばら ふさまさ)の長男として生を受けました。生母は側室の原田氏と伝わります。幼名は「猶之進(ゆうのしん)」と名乗りました。

 房昌は長州藩第7代藩主・毛利重就を祖父に持つ人物です。房昌が養子入りした福原氏は、長州藩内で永代家老を務める家柄でした。敬親は生まれながらにして藩主に近い血筋を持ち、藩政を預かる立場を約束された存在だったようです。

 さらに敬親誕生の年に、房昌は毛利家に復帰して「毛利教元」と改名。藩主・毛利斉煕の養嗣子となっています。まさにこの瞬間、わずか1歳の敬親も将来の長州藩主候補となっていたのです。

 文政7年(1824)には、父の教元が家督を相続し、晴れて長州藩主となりました。程なくして教元は江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の偏諱を受けて「毛利斉元」と再び改名。敬親は父の偏諱を受けて、この頃に「教明(のりあき)」を名乗るようになりました。

田安徳川家からの縁組を断って、長州藩を支える道を選ぶ

 長州藩内の政治的混乱は、敬親の将来を決定づけていきます。 天保7年(1836)、萩城下で大洪水が発生。のちに「申歳の大水」と呼ばれるほどの甚大な水害でした。

長州藩(萩藩)の拠点だった萩城址(山口県萩市堀内)
長州藩(萩藩)の拠点だった萩城址(山口県萩市堀内)

 敬親のいた南苑邸も水害で被災。激流によって廃材が流れ込むという甚大な被害を出します。同年には父が病没。程なくして毛利斉広が12代藩主となりますが、ひと月足らずで世を去ります。

 水害の被害や藩主の相次ぐ病死で、長州藩内は混乱していました。加えて財政難によって藩政は逼迫しています。当時、敬親には田安徳川家から養子縁組の話がありました。田安徳川家は ”御三卿” の一つですから家格は長州藩毛利家より上ですが、翌天保8年(1837)、敬親は養子を断って家督を相続。第13代長州藩主に就任しています。

 また、同年には江戸幕府第12代将軍・徳川家慶の偏諱を受けて改名「毛利慶親」を名乗っています。弘化3年(1847)には毛利斉広の長女・都美と結婚。毛利一族との結びつきを強めていきました。

「そうせい侯」と呼ばれた名君

 天保9年(1838)年、敬親は萩に入国。翌天保10年(1839)から藩政改革を行なっていきます。このときに村田清風(むらた せいふう)を登用、程なくして村田と対立する坪井九右衛門も取り立てて藩政改革に協力させています。

長州藩の藩政改革を主導した村田清風(山口県立山口博物館蔵、出典:wikipedia)
長州藩の藩政改革を主導した村田清風(山口県立山口博物館蔵、出典:wikipedia)

 敬親は決して強権的な主君ではありませんでした。家臣の言葉をよく聞くことから、周囲から「そうせい侯」と呼ばれていたほどです。もっとも、その態度は当時の大名からすれば決して特別だったわけではありません。大名が直接政治に口出しすることは稀でした。

 決裁するとき、家臣には「考え直せ」「もってのほかじゃ」「そうせい」のいずれかを選ぶのが通常だったといいます。しかし敬親は他の大名とは違い、人を見る目は確かなものを持っていました。まだ幼かった吉田松陰を評価して重用し、御前で兵学の講義をさせています。のちに松陰の弟子である高杉晋作も用いていることからも、有能な人材を分け隔てなく取り立てていたことがわかります。

 天保12年(1841)には、江戸にも藩校・有備館を設立。藩士の文武向上を奨励するなど、人材育成に力を入れます。天保14年(1843)には国許の萩で大規模な練兵を実施。外圧の脅威が迫る日本を守るべく、危機意識を持って行動していました。

尊王攘夷運動と公武合体の狭間で苦闘

 藩主となった敬親は、幕府と長州藩の関係に苦心する日々を送ります。嘉永6年(1853)、浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航。幕府に開国を求めるという事件が起きます。このとき、長州藩は相模国の警備を担当していました。

1853年7月14日、ペリー提督の初上陸の図(出典:wikipedia)
1853年7月14日、ペリー提督の初上陸の図(出典:wikipedia)

 幕府が開国政策に傾く中で、全国では尊王攘夷運動が活発化。長州藩でもその動きが強まりつつありました。敬親は攘夷派と近い周布政之助らを抜擢。幕府の外交方針に反対する形で攘夷を訴えます。

 安政5年(1858)、長州藩は朝廷から攘夷の密勅を受けます。しかし長州の場合、あくまで不平等条約での開国に反対でした。そのため敬親らは長州藩に洋式軍備の導入すべく周布らに活動させます。しかし同年、幕府大老・井伊直弼が攘夷派と自らを批判する勢力の弾圧に乗り出しました。このとき、吉田松陰も捕らえられて斬首されています。

 安政7年(1860)、登城中だった井伊直弼が桜田門外で暗殺されました。幕府の権威が失墜すると同時に、情勢は新たな局面を迎えます。幕府老中・安藤信正は、公武合体政策を採用。朝廷と幕府、諸藩の協調策を模索していました。

 文久元年(1861)、敬親は直目付に長井雅楽を登用。長州の藩論は、航海遠略策による開国と公武合体に転換しました。しかし長井の周旋は失敗。翌年(1862)には、長州藩の藩論は再び攘夷へと転換します。


禁門の変勃発と攘夷の失敗

 長州藩と幕府の姿勢の違いは、やがて時代を揺るがす事態へと発展していきます。文久3年(1863)、敬親は海防を意識して藩庁を山口城に移転。攘夷に向けて動いていました。

 長州藩は京都政界でも尊攘派公卿と手を結んで活動。御所の警備を任されながら、攘夷実行を幕府に迫っていました。しかし情勢は思い通りには進みません。同年5月には攘夷実行のために外国船に砲撃。アメリカやフランスから逆襲されてしまいます。加えて京都では会津藩と薩摩藩による「八月十八日の政変」が勃発。京都を追われてしまいました。

 元治元年(1864)には、京都で池田屋事件が発生。多くの長州藩士が殺害や捕縛されます。長州藩の尊王攘夷派はこれに激怒。来島又兵衛らは兵を率いて京都に進撃し、禁門の変を起こしました。この戦いで長州藩は幕府軍に大敗。御所に砲撃したことで朝敵とされてしまいます。

「禁門の変」で京へ進軍する長州兵と、非難する庶民たち(京都大学附属図書館所蔵)
「禁門の変」で京へ進軍する長州兵と、非難する庶民たち(京都大学附属図書館所蔵)

 進撃に関しては、敬親らの命令文書が発見。このことから敬親は官位を剥奪された上で、将軍家から賜った偏諱までも取り上げられました。以降は「毛利敬親(たかちか)」と名乗るようになります。

 同年の8月には、下関が英米蘭仏の連合艦隊によって砲撃。手痛い敗北を喫しました。敬親や長州藩の運命は風前の灯となっていたのです。

名誉の回復と明治維新の成立

 敬親は長州藩の運命を有能な人物たちに託していきます。幕府が第一長州征伐を行うと、関わった三家老に切腹を命令。謹慎することで対立を回避します。この頃からは長州藩は椋梨藤太ら佐幕派が掌握。討幕の色彩が強い尊王攘夷派は排斥されていきました。

 慶応元年(1865)には高杉晋作らが挙兵。佐幕派を打倒して藩の政権を掌握します。ここにおいて、かつて敬親が志向した洋式軍備の充実が進められることとなりました。翌慶応2年(1866)には薩長同盟が締結。薩摩藩の援助もあり、同年に起きた第二次長州征伐を勝利で飾ります。

 敬親自身も長州藩のために積極的に活動していました。慶応3年(1867)には、イギリスのキング提督と会見。討幕のために関係を深めています。同年10月には討幕の密勅が薩長に降下。将軍・徳川慶喜を大政奉還に追い込むと同時に、藩兵を上京させて決戦に備えさせます。12月には敬親に官位が戻り、朝敵の処分も解除されています。

 年が明けて慶応4年(1868)1月、薩長新政府軍は鳥羽伏見の戦いで勝利。敬親も長州藩も官軍となっていました。

版籍奉還を先導

 明治維新の成立と同時に敬親は新たな役目を担うこととなります。

 慶応4年(1868)5月、敬親は上洛して明治天皇に拝謁。左近衛権中将に任じられ、官位の上でも朝廷の守護者と位置付けられました。しかし戊辰戦争の前線に出ることもなく、敬親はほどなく山口に帰国。変わらずに藩政の運営に携わります。

 しかし明治政府の成立によって、中央集権国家への道筋が付けられます。敬親は木戸孝允(桂小五郎)から版籍奉還を促されて承諾。時機を見計らうように注意しています。

 明治2年(1869)1月、敬親は版籍奉還を朝廷に奏上。薩摩藩主・島津忠義や土佐藩主・山内豊範、肥前藩主・鍋島直大も同じでした。養嗣子・毛利元徳が知藩事となると、敬親は毛利氏の家督を譲って隠居。政治の表舞台から去りました。

毛利敬親と毛利元徳(出典:wikipedia)
毛利敬親と毛利元徳(出典:wikipedia)

 明治4年(1871)、敬親は藩庁内殿で病没。享年五十三。神号は忠正公。従一位が追贈されました。墓所は野田神社にあります。

 維新後にはさらに敬親の働きが評価されていきました。明治34年(1901)に正一位が追贈。野田神社は別格官幣社となりました。


【参考文献】
  • 大森映子 『お家騒動 大名家の苦闘』(吉川弘文館、2018年)
  • 朝倉浩平ら編 『世界人物逸話大辞典』(角川書店、1996年)
  • 国立国会図書館HP 時山弥八編 『稿本もりのしげり』 1916年
  • コトバンクHP 「毛利敬親」

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。