「桂小五郎(木戸孝允)」大久保利通、西郷隆盛と並ぶ維新の三傑にして近代化の功績者
- 2021/08/02
動乱の幕末において、人一倍生きることに固執し、逃げ続けた男がいます。長州藩士・桂小五郎です。
小五郎は幼い頃に次々と家族を失い、一時は出家を考えるほどに落ち込みます。
しかし一念発起して、剣術と学問に精励。やがて藩を代表する人物となり、幕政改革にも関わりました。
やがて時代は暗転し、小五郎は逃亡生活を強いられます。小五郎は命懸けの逃避行を経て、長州藩の指導者として表舞台に復帰。討幕を成し遂げました。明治政府では、日本の近代化に取り組みますが、相次ぐ内部分裂の末に政府は瓦解。小五郎も一時政府を去る道を選びました。
小五郎は何と戦い、どう生きて来たのでしょうか。桂小五郎こと木戸孝允(きど たかよし)の生涯を見ていきましょう。
養子入りと最初の改名
和田小五郎から桂小五郎への改名
天保4(1833)年、桂小五郎(後の木戸孝允)は長門国萩城下で藩医・和田昌景の長男として生を受けました。母は清子です。
和田家は藩医でありながら、藩祖・毛利元就の七男・天野元政の流れを汲む家柄です。
小五郎の置かれた境遇は複雑でした。
母・清子は後妻であり、父・昌景には前妻との間に設けた二人の女子(小五郎の姉)がいたのです。
姉に婿養子・文譲が迎えられて家督を相続。小五郎は次男としての扱いを受けることとなりました。
天保11(1840)年、小五郎は長州藩大組士・桂考古の末期養子に入って家督を相続。「和田小五郎」から「桂小五郎」となり、90石の禄を得る身となります。
しかし翌天保12(1841)年に養母が亡くなり、和田家に戻ることとなりました。
小五郎は病弱な少年でしたが、活発さも見せています。
夢中になったのが、城下の松本川の船を船頭ごと転覆させる遊びでした。
しかしある日、小五郎は船頭に櫂で頭を叩かれて流血。泣き叫ぶことも怒ることもなく、ニコニコと笑っていたと伝わります。
悪戯だけでなく、優れた学識も注目されていました。
小五郎は藩主・毛利敬親の親試で漢詩を即興で披露。さらに孟子を解説するなどしています。
二度の褒賞により、小五郎の英明さは周囲が認めるところとなりました。
神道無念流の免許皆伝
小五郎が才を磨いたのは、学問だけではありません。
弘化3(1846)年、小五郎は柳生新陰流に入門。長州藩の剣術師範・内藤作兵衛のもとで腕を磨きます。
嘉永元(1848)年、小五郎は元服。以来、和田ではなく桂小五郎と名乗るようになりました。
しかし小五郎に悲劇が訪れます。
同年、姉と母・清子が病没。さらに嘉永4(1851)年には、父・昌景も世を去ります。
一時、小五郎は出家を宣言するほどに落ち込んでいました。
翌嘉永5(1852)年、小五郎は江戸に遊学。神道無念流の練兵館に入門して剣術修行に力を入れていきます。小五郎の努力の裏には、父・昌景の「人一倍武士になるよう粉骨精進」の言葉がありました。
入門から一年ほどで小五郎は神道無念流の免許皆伝を取得。塾頭を任されるほどになります。
塾頭を勤めた期間は、長州に帰国するまでの五年間に及びました。
幕政改革で功績を挙げる
開国論との出会い
嘉永6(1853)年、浦賀にペリー率いる黒船艦隊が来航。日本に開国を求める事態となりました。
長州藩は大森海岸の警備を担当。小五郎も藩主・毛利慶親(後の敬親)に警備として付き従っています。
高まる外圧の脅威に際し、小五郎は危機感を持ちました。伊豆代官・江川太郎左衛門に師事し、最新式の西洋兵学や砲術を学んでいます。さらに長州藩に軍艦建造を上申。意見書が受け入れられ、翌嘉永7(1854)年に西洋式軍艦を建造することが決定します。
小五郎は兵学だけでなく、実地調査にも随行。実際にペリー艦隊の二度目の来航を目撃しています。
さらに造船術や英語を学習。小五郎は常に最先端の学問に触れるようにしていました。
文久の改革での功績
安政5(1858)年には、江戸藩邸の大検使役を拝命。小五郎の兵学の師で、親友でもあった吉田松陰が推薦したものでした。
しかし同年、松蔭は老中・間部詮勝や伏見要駕策を立案。長州藩によって捕縛されてしまいます。翌安政6(1859)年には松蔭が斬首され、小五郎は伊藤博文らと松蔭の遺体を引き取って埋葬しています。
以降、小五郎は長州藩の反幕府グループの一人として活動を先鋭化させていきました。
万延元(1860)年には、水戸藩士らと丙辰丸の盟約を締結。文久2(1862)年には、学習院御用掛を拝命して、朝廷や諸藩と外交関係を築きます。
同年、朝廷は幕府に文久の改革を要請。三箇条の一・将軍上洛は、小五郎が発案したものだと伝わります。
『るろうに剣心』でも描かれた逃亡生活
池田屋事件に遭遇する
小五郎は横井小楠や勝海舟と面識を得て、開国や海防に話し合いを持っています。
文久3(1863)年、長州藩による欧米への留学生派遣が実現。伊藤博文や井上馨ら秘密留学生を英国に送り込んでいます。
5月には再び上洛。京都では真木和泉ら攘夷派と協力して、破約攘夷活動を行なっています。
小五郎の念頭には開国があり、不平等条約自体を否定していました。攘夷はあくまで方便として活用していたようです。
当時の小五郎は、すでに新国家の体制も構想していました。
構想には「正藩合一(諸藩との協力)」によって、大政奉還を実現。雄藩連合による新政府樹立が企図されていました。
しかし構想はあえなく頓挫することとなります。
8月、京都で政変が勃発。朝廷から長州派の公家・三条実美らが追放されてしまいます。
翌元治元(1864)年1月からは、潜伏しつつ外交活動を継続。5月には京都留守居役を拝命し、正式な立場で外交を取りきしることとなりました。
しかしさらなる試練が小五郎を襲います。
6月、池田屋事件が勃発。京都大火計画を阻止するため、京都守護職配下の新選組が踏み込んで長州系浪士を多数殺害しています。
小五郎は池田屋の会合に参加する予定でした。しかし対馬藩邸にいて、難を逃れたと伝わります。
一時は、小五郎が池田屋から逃げたと噂が立ちます。そのため、小五郎の立場は悪くなっていきました。
逃亡生活の始まり
池田屋事件後、長州藩の過激な尊王攘夷派は京都に進撃。禁門の変が勃発しました。
長州藩は御所に発砲したことで「朝敵(ちょうてき。天皇および朝廷に敵対する勢力のこと)」に指定。さらに戦火は、市街地の三分の一を焼くという被害を出してしまいました。
このあたりのことは漫画『るろうに剣心』でも描かれています。
小五郎は潜伏生活を開始。恋人・幾松や友人らの助けを借りながら追撃を交わし続けていきます。
やがて京都から但馬国出石に脱出し、出石で偽名を名乗って荒物屋を営みながら暮らしを送っていました。
すでに長州藩は佐幕派が政権を握っています。帰国すれば小五郎の命はありません。そのため、当時の小五郎の居場所は、大村益次郎や伊藤博文らが知るのみでした。
しかし小五郎に再び活躍の時が訪れます。
国許の長州藩で高杉晋作らが挙兵。佐幕派の藩政府を打倒することに成功しています。
慶応元(1865)年、小五郎は長州に帰国。武備恭順の方針のもと、藩政改革に取り組んでいきます。
さらに小五郎は、藩主・敬親から「木戸」姓を拝領。以降は木戸姓を名乗っていくこととなりました。
明治での功績と最期の名言
長州藩の討幕派を束ねる
小五郎は長州藩の代表的立場で政治と関わっていきます。
慶応2(1866)年1月、小五郎は京都に出向。薩摩藩との間で薩長同盟締結を実現しています。
来るべき幕府との戦いを見据えての同盟でした。小五郎らは薩長同盟のもとで、イギリスから最新式の武器を購入することに成功。軍備強化に乗り出していきます。
同年6月、幕府は長州藩に対して第二次長州征伐(四境戦争)を仕掛けてきます。
小五郎は英仏の公使らと馬関で会談。和議や降伏を勧められていますが断っています。
長州藩は最新の銃と軍艦を入手し、士気も高い状態でした。
石州口では大村益次郎が浜田城を陥落させ、石見銀山まで手中に収めるほどの戦果を挙げています。
他の芸州口、大島口、小倉口とも長州軍は勝利しています。
戦中に将軍・徳川家茂が大坂城で病没。8月に幕府と停戦協定を締結したことで、勝利を確定させています。
慶応3(1867)年5月、京都で四侯会議が開催されます。
会議上で長州問題が話し合われ、寛典論が朝廷に上奏。勅許を得たことで、長州藩の朝敵解除が決まります。
木戸孝允と名乗る
12月の小御所会議で新政府が樹立。開けて慶応4(1868)年1月に、小五郎は総裁局顧問や参議に任命され、明治政府の中枢を担うこととなりました。
小五郎は同年3月の五箇条の御誓文にも関与。五箇条に続く勅語を挿入。7月には東京奠都にあたり、詔書の起草(案は岩倉具視)に関わっています。
明治2(1869)年、版籍奉還が実行。小五郎は藩主・敬親を説得した上で同意させています。薩長土肥四藩の藩主が先頭に立つことで、諸藩も続々と続いていきました。
またこの頃から、名乗りを諱の「木戸孝允」と変えています。
明治4(1871)年、新政府は廃藩置県を断行。廃藩置県に関する密議は木戸邸で行われ、孝允は日本の中央集権化に大きく寄与することとなりました。
同年には、岩倉使節団の一員として欧米を外遊。しかし確たる結果は出せず、明治6(1873)年に帰国します。
しかし征韓論問題で西郷ら留守政府と対立。結果として政府は分裂し、西郷らを下野に追い込むこととなりました。
翌明治7(1874)年に台湾出兵が決定されると孝允は参議を辞職。しかし明治8(1875)年に大阪会議に招待され、参議に復帰を果たしています。
西南戦争の最中に世を去る
孝允は多くの近代化政策と並行し、同時に不平士族の反乱や地租改正反対一揆にも対処しています。
明治9(1876)年には、国許で萩の乱が勃発。首謀者・前原一誠を臨時裁判所で審理を行うなど、前線でも指揮権を発動していました。
さらに同年には地租改正の意見書を提出。翌明治10(1877)年に地租が3%から2.5%に軽減されています。
明治10(1877)年2月、西郷が鹿児島において挙兵。西南戦争が勃発します。
孝允は西郷追討の任を望んで京都に出張。しかし思いがけない事態に見舞われます。
当時の孝允は、病状が悪化していました。
京都の別邸で大久保の手を握り「西郷もいい加減にしないか」と叫んだと伝わります。
ほどなくして、孝允は世を去りました。享年四十五。法名は覚是院殿松菊大居士。墓所は京都霊山護国神社にあります。
明治11(1878)年、木戸家は大久保家と共に華族に列しています。明治17(1884)年の華族令制定では、木戸家当主となった養子・木戸正二郎が侯爵となっています。
【主な参考文献】
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