正解!
ざんねん…
答えは「上杉景勝の側近として、政治と外交の中枢を担った」
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直江兼続は、越後国(新潟県)を支配した戦国大名・上杉景勝の重臣で、「義」を重んじた人物としても知られています。 兼続は永禄3年(1560)に越後国魚沼郡の樋口兼豊の子として誕生。幼い時から才覚に優れていたことから、上杉謙信の姉・仙桃院に見初められ、その子である景勝に仕えるようになります。 景勝が上杉家の本拠・春日山城に入ると、兼続も随行し、戦国屈指の名将である謙信の薫陶を受けました。謙信死後の後継者争い(御館の乱。1578)では景勝を助け、勝利に貢献しました。 それから3年後、兼続は越後の名門である直江家の婿養子となり、「直江兼続」を名乗るようになります。名実ともに重臣となった兼続は、景勝から絶対的な信頼を受け、越後国の内政、軍事、経済を担うようになっていきました。 織田信長の死後、羽柴秀吉の台頭によって上杉家は秀吉に臣従。兼続は秀吉から「天下の政治を任せられる一人」と称えられ、豊臣姓を賜るほどの信頼を得るようになります。慶長3年(1598)には上杉家は越後国から会津国(福島県)に転封。兼続は秀吉直々に会津120万石のうち、米沢30万石を与えられました。 しかし秀吉の死後、権力を握った徳川家康は、景勝に上洛するよう再三求め、「謀反の疑いあり」と糾弾する書状を送りつけます。これに対し、兼続はことごとく反論し、上洛を拒否する手紙を送り返しました。これが有名な「直江状」です。 家康は上杉討伐に向かいますが、その途中、石田三成ら(西軍)が挙兵したため、上杉討伐を中断して三成討伐へと変更。天下分け目の戦いとなった関ケ原の戦い(1600)で家康(東軍)が勝利したことで、上杉家は敗者となってしまったのです。戦後、上杉家は取り潰しの可能性もありましたが、景勝と兼続が家康に謝罪したことで米沢30万石への減封処分でなんとか生き残れました。 米沢入りした後、兼続は新しい城下町づくりに尽力、元和5年(1619)に60歳の生涯を閉じました。 上杉謙信を崇敬し、義を重んじた生涯を貫いた直江兼続。兼続の兜の前立てには、戦国武将としては珍しい「愛」の文字があしらわれており、軍神「愛染明王」を意味するとの説のほか、「領民への仁愛」を示したとする説もあるそうです。 ちなみに伊達政宗の軍師といえば「片倉景綱」、15代将軍足利義昭の幕臣といえば「細川藤孝」、千利休のほかにこの時代で有名な茶人といえば、「津田宗及」「今井宗久」などがあげられます。
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