【家紋】王と呼ばれたキリシタン大名!「大友宗麟」と大友氏の家紋について
- 2020/02/06
多くの文書類によって戦国時代の記録が残されていますが、なかでも布教のために来日したキリスト教宣教師たちが書き遺したものが有名です。文化や習俗の違いによるとまどいや好悪の感情はあるものの、きわめて客観的に当時の様子を伝えていることから貴重な史料となっています。
時代が下るにしたがって徐々にキリスト教への規制が強まり、やがて禁教令が敷かれるのは周知の通りです。しかし戦国期においては必ずしもそうではなく、むしろ積極的にキリスト教を支持し、自ら洗礼を受けるに至った武将も出現するようになります。
いわゆる「キリシタン大名」のことで、知己の武将同士で入信を勧めたり、自国に訪れた宣教師から教義を聞いて受洗したりと、意外にも柔軟にキリスト教を受け入れたケースがみられます。
そんなキリシタン大名としてもっとも有名な人物の一人が「大友宗麟」ではないでしょうか。豊後(現在の大分県あたり)を本拠とした戦国武将で、殊に熱心にキリスト教の保護・普及に努めたことがよく知られています。
今回は宣教師から「王」と例えられた大友宗麟を中心に、大友氏の家紋についてみてみることにしましょう。
時代が下るにしたがって徐々にキリスト教への規制が強まり、やがて禁教令が敷かれるのは周知の通りです。しかし戦国期においては必ずしもそうではなく、むしろ積極的にキリスト教を支持し、自ら洗礼を受けるに至った武将も出現するようになります。
いわゆる「キリシタン大名」のことで、知己の武将同士で入信を勧めたり、自国に訪れた宣教師から教義を聞いて受洗したりと、意外にも柔軟にキリスト教を受け入れたケースがみられます。
そんなキリシタン大名としてもっとも有名な人物の一人が「大友宗麟」ではないでしょうか。豊後(現在の大分県あたり)を本拠とした戦国武将で、殊に熱心にキリスト教の保護・普及に努めたことがよく知られています。
今回は宣教師から「王」と例えられた大友宗麟を中心に、大友氏の家紋についてみてみることにしましょう。
「大友 宗麟」の出自とは
大友氏は源流を遡ると藤原氏を始祖としていると伝えられます。秀郷流または利仁流などの説がありますが、鎌倉時代に相模(現在の神奈川県あたり)大友郷を領した「中原能直」が、地名にちなんで「大友」を名乗ったのが始まりとされています。大友氏初代当主の能直は豊後と筑後の守護職、そして鎮西奉行職に任じられ、三代「大友頼泰」の時代に豊後へと下向しました。
南北朝時代には南朝寄りであった九州地方の時勢に従いながらも、家流を分裂させて北朝側にもつけることで一族の存続に成功します。周辺氏族との紛争を繰り返しながら大友氏はやがて戦国大名化していき、二十代当主「大友義鑑(よしあき)」の時代には豊後・筑後・肥後三か国の守護となります。
相続争いを制してその後を継いだのが「大友義鎮(よししげ)」で、後に出家して「宗麟」と名乗ります。
宗麟は足利将軍家との関係強化にも注力し、やがて計六か国の守護と「九州探題」を兼ねるという大友氏の最大版図を築き上げます。
大友氏は急激に台頭した「龍造寺氏」、そして南九州の「島津氏」と並んで「九州三英傑」とも称されますが徐々に衰退。最終的には豊臣氏の傘下に加わることで一族を存続させる決断をします。
九州平定においては秀吉軍の一角として島津勢と交戦、激戦の末島津氏は降伏しますが、その直前に宗麟は豊後で病没します。享年は五十八歳だったと伝わっています。
大友氏の紋について
大友宗家では代々「大友抱き杏葉」という紋を用いてきました。まるで茗荷や筍のように見える意匠が向かい合わせで円形を描くという、不思議なデザインとなっています。「杏葉(ぎょうよう)」とはその字面から杏や銀杏との関連性がイメージされたり、江戸期には「茗荷紋」と誤認されたりしたこともあるようですが植物紋ではありません。これは中国起源の馬具や甲冑にあしらわれた装飾がルーツとされています。
大友宗家はこれを独占し、他の氏族が使用することを禁じました。
ただし、他の大友一門や功績のあった家臣にはアレンジを加えた「大友抱き花杏葉」を与え、それらを「同紋衆」と呼んでいました。
当時、大友宗家からこの紋を許されるのはとても名誉なこととされたようで、大友氏を撃退した龍造寺氏の「鍋島直茂」も勝利を記念して自らの家紋を杏葉に改めたといいます。
もう一点、宗麟の独占紋であったとされるのが「算木(さんぎ)」または「乾掛(けんか)」と呼ばれるものです。
これは横長の長方形を三つ配しただけの、とてもシンプルなデザインとなっています。算木とは昔の計算機のようなもので、直方体の木を積み重ねることで複雑な計算を可能にしました。江戸時代まで算盤とともに用いられ、和算の解に貢献したといいます。
一方の「乾掛」とは易占の「八卦」などで表されるもののひとつで、「乾」は「乾坤一擲」などの語にあるように「天」を意味しています。
また、八卦では「陽性」「主」「父」「英雄」などを象徴し、君臨者としての吉祥に満ちた紋であったといえるでしょう。ただし、この算木・乾掛紋はほとんど使用されなかったとも考えられています。
おわりに
宗麟は戦国武将としてはもっとも早い段階でカンボジアなど東南アジアとの交易を進めるなど、外交手腕にも秀でた人物だったことが知られています。熱烈にキリスト教を受容したことも有名で、多くの西洋文化を導入した功績も残しています。その一方で古来の神仏を否定し、日向では寺社の破却を行うなど過激な側面も持っていました。キリスト教への転向と行き過ぎた信仰は家臣団や国人の反発を招き、大友氏の勢力を衰退させる原因のひとつになったとも考えられています。
来日宣教師をして「王」と呼ばしめた宗麟は、狂おしいまでに心の救いをキリスト教に求めたのではなかったでしょうか。
【参考文献】
- 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ
- 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研
- 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
- 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
- 『異国叢書.第11』1929 駿南社
- 『見聞諸家紋』 室町時代(新日本古典籍データベースより)
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