【家紋】西国の覇者にして百済王の末裔?「大内義隆」と大内氏の家紋について
- 2020/03/02
実質的な「天下人」と呼ばれたのは豊臣秀吉というイメージがありますが、それ以前には大勢力の地方領主が各地で長期間の政権を維持した例がありました。
古代に遡る名門氏族のうち在庁官人として土地に根付き、そのまま守護、守護大名、そして戦国大名へと成長していった一族などです。紛争は絶え間なくあったものの、長きにわたる自国統治の実績と歴史をもった彼らは、中央政権の変遷を生き延びていわば「王国」とも呼べる繁栄を謳歌しました。そういった土地には京の都からの先進文化、さらに独自交易による海外渡来の文物なども流入し、時に都よりも都らしい「小京都」などと例えられる都市文化を形成しました。
そんな氏族のうち、最も有名といっても過言ではないのが「大内氏」ではないでしょうか。現在の山口県を中心とした本州西端部と、北九州にまで及ぶ広範な支配領域を誇った名族でしたが、戦国の「下剋上」によって滅亡したことがよく知られています。
今回は大内氏の最大版図を築いた末期の当主「大内義隆」を中心に、大内氏の家紋についてみてみることにしましょう。
古代に遡る名門氏族のうち在庁官人として土地に根付き、そのまま守護、守護大名、そして戦国大名へと成長していった一族などです。紛争は絶え間なくあったものの、長きにわたる自国統治の実績と歴史をもった彼らは、中央政権の変遷を生き延びていわば「王国」とも呼べる繁栄を謳歌しました。そういった土地には京の都からの先進文化、さらに独自交易による海外渡来の文物なども流入し、時に都よりも都らしい「小京都」などと例えられる都市文化を形成しました。
そんな氏族のうち、最も有名といっても過言ではないのが「大内氏」ではないでしょうか。現在の山口県を中心とした本州西端部と、北九州にまで及ぶ広範な支配領域を誇った名族でしたが、戦国の「下剋上」によって滅亡したことがよく知られています。
今回は大内氏の最大版図を築いた末期の当主「大内義隆」を中心に、大内氏の家紋についてみてみることにしましょう。
「大内 義隆」の出自とは
「大内義隆」は大内氏第十六代の当主で、次代の「大内義長」を事実上最後の当主とするため、大内氏の全盛期から衰亡までを見届けた人物でした。大内氏は本姓を「多々良」といい、周防国(現在の山口県南東部あたり)の在庁官人として「権介(ごんのすけ)」を世襲してきた一族です。
権介とは律令制における国の統治役職のひとつで、国司を「守(かみ)」とし、以下「権守(ごんのかみ)」「介(すけ)」「権介」と続きます。したがって、現代風にいうと「副知事補佐」といったあたりのポストに該当するでしょうか。
大内氏は鎌倉時代には周防一国を掌握し、徐々に支配領域を拡大。南北朝時代の当主「大内義弘」の代では近畿地方を含む六か国を領有するまでに至ります。
武家はその祖先を「源・平・籐・橘」のいずれかに求めるのが一般的ですが、大内氏では百済・聖明王の第三王子「琳聖太子」の後裔であると称しています。
本姓としている「多々良」は琳聖太子が周防の多々良浜から上陸したことに因み、やがて大内村に住まいしたことから「大内」が氏族名になったと家伝しているようです。
しかしこのような公称は十四世紀以降のこととされ、朝鮮半島との独自交易における家格示威の影響を指摘する声もあります。
戦国時代に家督を継いだのが義隆で、周辺諸大名からの侵攻を受け続けたものの、周防のほか石見・長門・安芸・備後・豊前・筑前の七か国を領有する、西日本最大級の戦国大名となりました。
義隆は外交や文化政策にも情熱を注ぎ、明国との貿易独占や技芸・学術の振興を推進しました。都からの公家保護にも積極的で、後にはキリスト教布教も許可したため、後に「小京都」とも称さる独自の都市が発達しました。
これは京洛から流入してきた文化人たちがもたらした東山文化や北山文化、そして大陸由来の文化が混然一体となって生まれたものです。
西洋文化の影響も大きく、キリスト教会やクリスマス行事もここが日本初とされています。優れた文治政策を推進した義隆でしたが、家中では必ずしも擁護されたわけではありませんでした。
義隆は武断派であった周防守護代の「陶隆房」と対立、隆房の謀反により追い詰められ自害します。享年は四十五歳と伝わり、これをもって事実上の大内氏滅亡と位置付ける研究者もいます。
大内氏の紋について
大内氏は「大内菱」と呼ばれる独特の菱紋を家紋として用いてきました。義隆の時代に一般的だったのはいわゆる「武田菱」のような四つ割り菱の周囲に刻みを設け、中心に横長の十字形を配した図案となっています。
「大内菱」は時代ごとにいくつかのバリエーションがあり、いずれも繊細に陰陽の起伏がある紋様です。和風というよりもむしろ大陸風を感じさせる紋という評価もあり、大内氏系統の一族以外での使用例は認められないことから独占紋の一種とも考えられます。
菱紋の源流ともされる「唐花菱」は、その名の通り中国に由来する古い紋章です。渡来系の氏族を公称する大内氏にとって、半島や大陸との関係性をアピールする意図もあったのかもしれませんね。
おわりに
義隆をはじめとする大内氏の歴代当主に共通する傾向として、「貴族趣味」と「復古主義」というキーワードが挙げられます。文化的な事柄に強い関心を持っていたのは先述の通りですが、義隆は朝廷に官位を要望する際、束帯姿で牛車に乗るといった徹底ぶりだったそうです。
実際に義隆とその家臣団が有する官位は朝廷から正式に賜ったものであり、箔付けに自称したものではないことがわかっています。いわば戦国武将には珍しい「勤皇家」であり、公家文化への憧憬を隠さなかったともいえるでしょう。
義隆は自身の城を構築せず、館(大内氏館)に住まって山口を京都風の条坊制をもった都市として整備していきます。つまりは現実に「都」の再現を願ったともいえ、もし平和な時代が続いていたら京を凌ぐ都市文化が繁栄し続けたのかもしれませんね。
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【参考文献】
- 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ
- 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研
- 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
- 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
- 『群書類従.第拾四輯』 塙保己一 編 1893 経済雑誌社
- 『見聞諸家紋』 室町時代(新日本古典籍データベースより)
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