「蘆名盛氏」地方の大名でありながら将軍直属の家臣! 会津蘆名家の最盛期を築いた大名

東北において、何度か歴史の転換点となった地域があります。現在の福島県西部に位置する会津地方です。
会津は東北、北陸、関東を繋ぐ要衝の土地でした。


戦国時代には、蘆名家が黒川城に拠点を構えて勢力を築きます。蘆名家の最盛期を築き、中央政界からも声望を得たのが蘆名盛氏です。


彼は蘆名家を継承して伊達家から独立。近隣を従えて会津に強大な勢力を築き上げ、勢力を拡げていきました。

今回はそんな蘆名盛氏の生涯にスポットライトをあてていきます。


蘆名家当主として版図を拡大

会津蘆名家の嫡男として誕生

大永元(1521)年、蘆名盛氏は第15代蘆名家当主・蘆名盛清の嫡男として生を受けました。母は金上盛興の娘と伝わります。幼名は四郎丸と名乗りました。


蘆名氏は桓武平氏の流れを汲む三浦氏を発祥とする一族で、相模国の蘆名に由来すると伝わります。


時を遡って文治5(1189)年、三浦義明の七男・佐原十郎義連が奥州合戦に従軍。義連に会津四郡を与えられたといいます。この義連を初代に会津蘆名家は始まりました。


室町時代には、蘆名家は京都扶持衆(将軍家直属の家臣)に名前を連ねています。奥州にいながら、中央から公然とした地位を与えられていました。

当時の蘆名家は会津守護を自称し、奥州でも指折りの戦国大名となっていました。会津地方だけで千葉県に匹敵するほどの広さがあります。蘆名家は当時の国持大名級の勢力を持っていたことが予想されます。


盛氏はその蘆名家を継ぐ立場でしたが、決して盤石な立場であったわけではないようです。


天文6(1537)年、盛氏は伊達稙宗の娘を正室に迎えています。
伊達稙宗は、当時の奥州や関東の諸大名と婚姻を結んで勢力を増大していました。大崎家や最上家なども伊達家の影響下にあったと伝わります。

いわばこのときの稙宗は、奥州で随一の力を持つ大名でした。会津の蘆名家や盛氏も、決して伊達家の影響下に置いて例外ではありませんでした。


独立した大名となる

天文8(1539)年、盛氏は従五位下に叙任。修理大夫となりました。
五位以上は殿上人と呼ばれる位です。ここからは清涼殿への昇殿が許される地位となります。
蘆名家が朝廷や幕府との緊密な関係を築いた上で、一定以上認められていたことが窺えます。


天文10(1541)年、盛氏は家督を相続して蘆名家第16代当主に就任。翌天文11(1542)年には、山内家を討って会津地方における勢力を拡大します。

しかし同年、蘆名家と盛氏の運命を変える出来事が起きました。
伊達稙宗とその嫡男・晴宗との間で内紛が勃発。世にいう天文の乱です。


盛氏は義父・稙宗側に参陣することを決定します。しかし翌天文12(1543)年、盛氏は稙宗方の田村隆顕と仙道沿い(現在の福島県の中通り)において衝突。結局は、義兄の晴宗方に味方をする立場に転じます。
結果、天文の乱は晴宗方の勝利に結びつくこととなります。


盛氏の行動が、伊達家のみならず奥州の運命をも変えた瞬間でした。このときをもって、蘆名家などの大名家は、伊達家の影響下から脱したと見えることができます。


蘆名の最盛期を築く

家康と並ぶ人物と評価される

盛氏は独立した大名として、領土拡張に乗り出します。
天文19(1550)年、盛氏は仙道進出を開始。宿敵である田村隆顕と戦います。しかし田村家の背後には、常陸国の佐竹家が控えていました。


盛氏は佐竹家の妨害によって、外交政策の転換を模索。佐竹家と敵対する大名との関係を強化する道を選びました。
ここで蘆名家は相模国の北条氏康と甲斐の武田信玄と同盟。佐竹家を背後から牽制するに及びました。


当時、勇名を馳せていた武田信玄は盛氏を高く評価していたようです。信玄は優れた武将四人を挙げています。「丹波の赤井直正、近江の浅井長政、三河の徳川家康」と並び、盛氏の名前を挙げました。

前述のいずれもが国持大名級の人物で、中央との戦に関わっています。盛氏は会津という都とは遠い地にありながら、これらと同等との評価を得ていました。


盛氏が評価された点は、軍事以外にも目覚ましい功績を挙げた点です。
内政面において、盛氏は蘆名家の収入確保を強化。領内における金山開発に力を入れ、簗田氏を商人司に任命して流通体制を整えました。加えて盛氏は人材登用においても熱心だったようです。


家中の幼児を数十人集めて「不断衆」と称させ、暇な時は彼らの話を聞き、見込みのある者は武将に取り立てています。


隠居後も事実上の当主として存在する

永禄4(1561)年、庶兄・蘆名氏方の謀反を鎮圧。同年には足元を固めて、嫡男・盛興に蘆名家の家督を譲っています。


盛氏は大沼郡の岩崎城に隠居し、剃髪して暮らす道を選びました。
隠居後も蘆名家の実権を握り、事実上の当主の座にありました。


実際に永禄6(1563)年には、岩瀬郡に侵攻し須賀川城の二階堂盛義と戦っています。しかしこれには、伊達家が黙っていませんでした。

盛義の正室は、伊達晴宗の長女・阿南姫です。このため伊達軍が二階堂家の援軍として檜原に侵攻して来ます。
しかし蘆名方では戸山城主の穴沢信徳が撃退しています。


盛氏の声望は全国的に聞こえていたようです。
同年の室町幕府の記録における大名在国衆五十人余りの中に、盛氏も含まれています。ここには相模国の北条氏康や尾張の織田信長も列しています。


蘆名家の後継者不在問題

嫡男を酒毒で失う

永禄9(1566)年、盛義は降伏。嫡男の盛隆を蘆名家へ人質に出しました。
戦後、蘆名家は伊達家とも講和を締結。盛興の正室に晴宗の四女・彦姫を迎えることで結びつきを強めます。

天正2(1574)年、伊達実元とともに田村家に服属する二本松義国と大内義綱を撃破。田村清顕を傘下に加えることに成功しています。


しかし同年、思いがけない悲劇が盛氏を襲いました。
盛氏の嫡男・盛興が二十九歳の若さで急死してしまったのです。

どうやらこれは酒毒によるものだったようです。盛氏は家中に禁酒令を二度出しており、二回目が盛興の死を受けてのものでした。
このとき、盛興にも盛隆にも男子がおらず、蘆名家の家督は空席となってしまいます。

盛氏は側室を持っていませんでした。そのため、男子は嫡男の盛興一人だけの状態だったのです。このため蘆名家の衰退の遠因が生まれています。


戦国時代は、後継者を確保するために側室を持つことが常でした。しかしこの盛氏の姿勢は「近代的な清潔感」とも評されています。
しかし一方で、家を継ぐ後継者を最小限にすることで、お家騒動の芽を摘んだとも考えられます。


この後、人質となっていた二階堂家の盛隆に白羽の矢が立ちます。
盛隆は盛興の未亡人を娶って蘆名家の家督を相続。盛氏が黒川城に帰還して後見人の立場で政務を取り仕切りました。


蘆名家に退潮の気配が漂い始める

盛氏は飽くなき執念で勢力拡張に取り組み続けます。
永禄3(1560)年、娘の嫁ぎ先である白河結城家の家督相続問題に介入。女婿・結城義親を結城家の当主に据えています。


当時の盛氏の影響力は、会津地方から仙道沿い、海道沿い(浜通り)にまで伸びていました。このときの蘆名家は、白河結城家、相馬家、二階堂家、二本松家、田村家を支配下に置いています。


蘆名家は最盛期を迎えていたようです。
盛氏は永禄3(1560)年から天正4(1576)年にかけて、六度の徳政令を発布。蘆名家の権力は強固なものだったことがうかがえます。


しかし一方で、蘆名家内部では綻びが生じ始めていました。
二階堂家出身の盛隆へ反発する重臣たちとの軋轢や長年に及ぶ諸大名との合戦での戦費の不足が蓄積。盛氏の晩年には、蘆名家は徐々に最盛期の力を失いつつありました。


この頃、重税を取り立てる蘆名家の重臣を揶揄する落書きが見つかっています。蘆名家の失政を風刺したものだそうです。
蘆名家は民衆からの支持を失い始めていたことがうかがえます。
このときには、蘆名家はすでに退潮にあったと見ることができます。


蘆名家の滅亡への道筋

天正6(1578)年、越後の上杉謙信が死去。御家騒動となった御館の乱に乗じ、盛氏は越後国に兵を出しています。


当時は上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(謙信の養子。北条氏政の弟)に分かれて争っていました。盛氏たちは景虎方に参戦。これは北条家との関係があったためだと考えられます。しかし結果は景勝方の勝利に終わります。


天正8(1580)年、盛氏は世を去りました。享年六十。法名は瑞雲院竹厳宗関大庵主。墓は宗英寺にあります。


盛氏の生前、伊達輝宗から次男(伊達小次郎)が成長後に盛氏の養子にするという申し出があったようです。盛氏はこれに応じています。しかし盛氏没後、家督相続問題が勃発すると、輝宗と嫡男の政宗が約束の履行を求めています。


当時は、蘆名家は佐竹家との関係を強めていました。蘆名家の家臣団はこれに応じなかったため、両家の関係は悪化。政宗がのちに蘆名家を滅ぼすことに繋がっていくのです。



【主な参考文献】
  • 林哲『会津芦名四代』歴史春秋社 2010年
  • 野口信一『会津藩』現代書簡 2005年
  • 阿部猛ら編 『戦国人名事典』 新人物往来社 1990年

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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