独眼竜・伊達政宗の右目眼帯の理由は?オッドアイとの説も…
- 2021/09/27
戦国ファンなら「独眼竜」といえば、誰を指すのかすぐにお分かりのことと思います。いうまでもなく、戦国武将でも屈指の人気を誇る伊達政宗です。
伊達政宗は、隻眼であることもその人気に拍車をかけました。実際、政宗を取り上げたドラマや文学作品では、そのほとんどが右目に眼帯をしています。しかし、こうしたイメージばかりが先行しがちであり、実際のところ政宗の「眼」については、さまざまな俗説や通説が入り乱れています。
そこで今回は、政宗の「眼」に関する実像を整理し、さまざまな伝説を検証していきたいと思います。
伊達政宗は、隻眼であることもその人気に拍車をかけました。実際、政宗を取り上げたドラマや文学作品では、そのほとんどが右目に眼帯をしています。しかし、こうしたイメージばかりが先行しがちであり、実際のところ政宗の「眼」については、さまざまな俗説や通説が入り乱れています。
そこで今回は、政宗の「眼」に関する実像を整理し、さまざまな伝説を検証していきたいと思います。
史料から読みとれる政宗の右目
まず、政宗の右目が何らかの形で不自由だったことは事実であると考えてもよいでしょう。従来の定説は、天然痘の影響で右目の視力を失ったというものです。その根拠となる史料は『性山公治家記録』で、幼少のころに天然痘に感染し、配下の片倉景綱(小十郎)が飛び出した右目をえぐった、というものです。
しかし、このエピソードの真偽を確かめるには、昭和49年(1974)に行なわれた瑞鳳殿(ずいほうでん)の発掘調査の記録を吟味する必要があります。
この発掘調査は、もともと瑞鳳殿が太平洋戦争の戦火によって焼失し、その再建に着工されたことを由来とします。その際、工事に先立って地盤の調査などが必要になり、それに合わせる形で発掘調査が実施されました。
そこで、政宗の遺体が当時のさまざまな科学技術の点から検証されました。すると、天然痘の感染により失明したとされる政宗の右目眼窩に異常が見られなかったことが指摘されました。これは上記の「片倉景綱が政宗の眼球をえぐり出した」という説を否定するものです。
さらに、「片倉景綱ではなく政宗自身が右目をえぐり出した」、という説や、「矢が刺さったために眼帯をしていた」、という説も否定されることになりました。ただし、眼球軟部の病については否定されなかったため、何らかの眼球内異常が起こって視力を失ったことは推定できます。
結局のところ、政宗の幼少期に何が起こったかについての確実な史料は残されていないのですが、何らかの視力的な問題を抱えていたことは事実である可能性が高いです。
その根拠として、彼の肖像や木像の一部は右目が閉じられており、これに加えて真偽は定かではないものの、さまざまな伝説や二次史料においても視力を失ったことに言及されているからです。
ここまでの論証から、確実な史料とは言い難いですが『性山公治記録』に伝えられているように、天然痘によって右目の視力そのものに異常をきたしていた、というのが有力のように思えます。
脇腹を痛めた際の「手術」が、右目伝説に影響を与えた?
信ぴょう性の高い史料によって判明しているのは、政宗が脇腹を患った際に、金属による治療を試したことです。実際、伊達政宗とのやり取りを収めた一次史料『木村宇右衛門覚書』に、次のようなエピソードが収録されています。
── 政宗が右の脇腹を患った際、患部を刃物で治療しようと考えた。しかし、それでは切腹自殺を想起させるということで、適当な金属を過熱して治療することを思いついた。それを片倉景綱に依頼したところ、試しに馬屋の丸金を過熱して政宗に刺した ──
こうしたエピソードが、後世で政宗の右目が不自由だったことと結びつけられて、前述の伝説が誕生したという説があります。
「独眼竜・伊達政宗」のイメージは後世の創作?
さて、上記の内容を整理すると、「独眼竜」というイメージや、政宗のトレードマークでもある眼帯の存在についても、史実として認められるかが怪しくなってきます。そこで、次はこうしたさまざまな通説を検証していきたいと思います。「眼帯=政宗」は真実か?
眼帯に関して、戦国当時に描かれた政宗の肖像には、右目を覆った姿どころか右目に異常をきたしている肖像というものはほとんど描かれていません。ただ、これには明確な理由があり、政宗は遺言で自身の実像(右目に異常をきたしている様子)を後世に遺すことを嫌ったためとされています。ただ、先述したように、右目に異常をきたした姿は確認でき、瑞厳寺や東福寺など、数は少ないながら、そうした肖像や木像が所蔵されています。
ここで注目したいのは、いずれのものでも「眼帯」というものは全く描かれていないということです。それどころか、なんと現代になるまで創作においても眼帯をする政宗の姿は描かれていませんでした。驚くべきことに、政宗が眼帯をしている姿が確認できるのは、昭和初期の映画『獨眼竜政宗』が初出とされています。
その後は、徐々に眼帯をした姿が増えていきます。中でも大河ドラマ『独眼竜政宗』に眼帯をした政宗が描かれ、このドラマが現代でも語り継がれるほどのヒットを記録したこともあって、眼帯のイメージは完全に定着します。
現代では、もはや「眼帯=政宗」のイメージが絶対のものになっており、史料考証の反映をうたった創作や像においても眼帯が使用されるほど、戦国ファンに愛される要素となっています。
しかし、現実問題として眼帯をつけている肖像が確認できない以上、これを史実とみなすことは困難です。加えて、刀の鍔を眼帯にしているというのは、ますます現実的ではないでしょう。
おそらく、失明した右目を恥じているという事実と、目をえぐり出したという伝説が組み合わされる形で眼帯という発想が生まれ、さらに格好をととのえるために刀の鍔が採用されたと考えるべきです。
「独眼竜」を自称していた可能性はあったのか
また、「独眼竜」という彼の代名詞も、眼帯そのものを意味するわけではありません。「独眼竜」という表現の由来は、江戸時代の儒学者頼山陽の記した漢詩集『山陽遺稿』が初出とされています。以降、「独眼竜」が定着していったようです。異説として、政宗が独眼竜を自称していた可能性も指摘されています。そもそも独眼竜とは、中国後唐の太祖李克用につけられた異称です。時代の差と政宗が漢詩に精通していたことを考えれば、それを自称していた可能性もあるという説です。
いずれにしても、史料上で「独眼竜」という表記が発見されていない以上、あくまで自称説は推測の域を出ず、後世に名付けられたイメージというのが現在のところの史料的回答になるのではないかと思われます。
政宗はオッドアイ?仰天の異説を検証!
さて、ここからはここ最近になってしばしば言及されることが増えてきた「政宗オッドアイ説」という、驚きの異説を検証していきます。政宗オッドアイ説の由来
オッドアイ説は、研究書や学説が由来ではないようです。いくら論文を読み込んでも発見することはできませんでした。インターネットで調査してみると、どうやら2009年にテレビ東京で放送された「新説!?日本ミステリー」という番組が由来のようです。この番組では、まず政宗の母・義姫(よしひめ)がスペイン人と不倫した際に生まれた子が政宗であるという前提が紹介されたようです。一応の根拠としては、『性山公治家記録』の中に、白髪の僧侶が義姫に語りかけ、胎内を貸してほしいと頼むと、その後政宗が誕生したと伝えられています。
また、スペイン人説を裏付ける根拠として、政宗が積極的に力を入れていた『慶長遣欧使節団』の存在にも言及されていたようです。実際に、支倉常長を中心として使節団を組織し、積極的な海外交流を図っていたのは事実です。
さらに、先ほど触れた発掘調査の内容から、右目を失っていないにもかかわらずそれを恥じたという点で、オッドアイであったためにその点を恥じて眼帯をつけていたという見方が紹介されていました。視力を失った原因については先ほどと同様ですが、眼球内異常によって眼球軟部を患い、眼球が白く濁っていたと推定されるからです。
史料的な裏付けはあるのか?
しかしながら、この説には非常に多くの欠陥が存在します。まず、スペイン人説を否定する根拠は、発掘調査の記録に由来します。発掘調査では、政宗の遺骨が鑑定され、当時の東北人によく見られた骨の特徴をもっていることが確認されています。これにより、ハーフであったとする説は現実的なものではありません。
さらに、海外に積極的に進出していたというのは事実ですが、政宗が遣欧使節を派遣する以前にも積極的に海外進出やキリスト教の普及を図っていた大名は数多く、それらの大名全てがハーフとは考えられません。そのため、根拠としては非常に弱いです。
極めつけは、ここまでの論証で明らかにしてきたように、そもそも政宗は眼帯を常用していなかった可能性が高いので、オッドアイだったために眼帯をしていた、という図式は成り立ちません。
もっとも、政宗の右目に何かしらの異常があったことは有力であるため、瞳の色が違うという可能性が完全に否定されるわけではありません。実際にオッドアイは先天的・後天的のどちらにも発症の可能性があるため、絶対にありえないと言い切ることはできません。
ただし、史料的な裏付けがあまりに弱いこと、アカデミックな領域では一切言及されていないことから考えても、有力な説とはいえません。
伊達家をめぐる研究は依拠することのできる史料が他大名に比べて少なく、正確な論証が難しいという印象を受けました。そのため、今後の科学技術の発達による研究手法の進化や、新たな史料の発見が望まれるところです。
【主な参考文献】
- 大泉光一『キリシタン将軍伊達政宗』柏書房、2013年
- 小林清治『伊達政宗の研究』吉川弘文館、2008年
- 高橋富雄『シンポジウム伊達政宗』新人物往来社、1987年
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