【解説:信長の戦い】堂洞合戦(1565、岐阜県加茂郡富加町) 織田軍、加治田衆とともに堂洞城の岸一族を撃破!
- 2023/09/25
織田信長による美濃攻略戦の一つとして有名な「堂洞(どうほら)合戦」。いったいどのような戦いだったのでしょうか。男たちの戦いや駆け引き、その裏にあった “とある女性の悲劇” にも注目していただきたいと思います。
道三の死後、美濃攻略を進める信長
弘治2年(1556)、信長の岳父・斎藤道三は自身の息子である義龍との戦いに敗れ、戦死しています。道三は死の直前、「美濃は信長に譲る」との遺言を残していましたが、実際にはそうはいきませんでした。斎藤義龍のもと、美濃の国衆がうまくまとまっていたので、信長とはいえ簡単に手が出せないという状況が続いたのです。
さらに、手が出せないくらいならまだしも、義龍は尾張国内を攪乱し始めました。岩倉織田氏による信長への反抗や異母兄・信広の謀反にも、義龍が関わっていたとされています。うーん、これは信長に強敵が現れましたよ。どうしたもんでしょうかねぇ……。
ところが永禄4年(1561)、義龍が突然病によってこの世を去りました。信長にとってはまさに幸運! そして信長は、美濃攻略の動きを本格化させていくことになります。義龍の死から、わずか2日後に出陣したという「森部の戦い」の戦いでは、斎藤方との戦いに大勝しています。
また、永禄6年(1563)には美濃攻略のために、小牧山城(現在の小牧市)の築城を開始し、本拠地を清須からこちらへ移します。さらには美濃斎藤氏と結んでいた、織田信清(信長の従兄弟)の犬山城を攻め落とすことにも成功していました。
反信長だったはずの加治田城が味方に
一方、中濃(美濃国の中部)では、関城・加治田城・堂洞城という3つの城の間で、反信長の盟約(中濃三城盟約)が結ばれていました。余談ですが、関城主の長井道利は斎藤道三の弟もしくは子どもだったという説がありますね。- 関城主 → 長井道利
- 加治田城主 → 佐藤忠能(ただよし)(佐藤紀伊守)
- 堂洞城主 → 岸信周(のぶちか)(岸勘解由/かげゆ)
しかし永禄8年(1565)7月、加治田城主・佐藤忠能が丹羽長秀を介し、通じてきます。これを聞いて喜んだ信長は、忠能側に黄金50枚を贈ったといいます。
ですが斎藤方から見れば、忠能は“裏切った”というわけですよね。しかも忠能の娘は、堂洞城主・岸信周の養女になっていたそうで……。これは穏やかではありませんね。
加治田城の南・堂洞を舞台に…
中濃を攻略し始めた信長。まずは鵜沼(うぬま)城(現在の岐阜県各務原市)・猿喰(さるばみ)城(現在の岐阜県加茂郡坂祝町)を、次々と攻略します。そして、これら二つの城から10kmほど行ったところには、今や信長方に寝返った加治田城がありました。そんな加治田城の南・堂洞(現在の富加町夕田・美濃加茂市蜂屋)に、斎藤方の長井道利が付城を築きます。どうやらこのままでは、加治田城が攻められてしまいそうです。そこで永禄8年(1565)9月28日、信長は加治田城救援のため、そこからほど近い斎藤方の堂洞城を包囲させたのです。
堂洞城を乗っ取る
信長は長井軍に対する兵を配置する一方で、堂洞城を攻めさせます。信長軍は松明(たいまつ)を投げ入れて二の丸を焼き崩し、本丸へと攻め込んだのでした。なお、長井軍は信長軍の背後から攻めかかるつもりでしたが、この日は足軽さえ出撃させなかったとされています。午の刻(正午)から酉の刻(午後6時)まで続いたこの戦い。堂洞城主・岸信周が妻と刺し違えたという説もあるほど、凄まじいものだったようです。そんな中、太田牛一・河尻秀隆・丹羽長秀らが活躍を見せた信長軍は、堂洞城を乗っ取ることに成功しました。
翌日も戦闘が起こる
その夜は、加治田城に宿泊することになった信長。佐藤忠能と息子の右近右衛門は涙を流して、信長を迎えたといいます。うんうん、よかったですね。翌29日には斎藤方の大軍が、帰路に就こうとした信長軍を襲うという出来事もありました。『信長公記』によると、長井道利軍・斎藤龍興(義龍の子)軍はあわせて3千以上、対する信長軍は7~800程度だったとされています。
数的不利な信長軍には多数のけが人・死者も出たものの、斎藤方の軍勢を退却させ、小牧山城へと帰陣しました。
八重緑とその子どもたちの悲劇
さて、最後に八重緑(やえりょく)という女性の話をさせてください。彼女は先ほど少し書きました、佐藤忠能の娘です。反信長盟約の結束を固めるため、堂洞城主・岸信周の養女となっていました。いわゆる「人質」です。
ですが父の忠能は盟約を破り、信長側と内通したわけです。よって、娘の命の保証はどこにもありません。そこで岸信周は合戦の前日、加治田城からよく見える丸尾山という場所で(怖いわ~)、八重緑を竹槍で串刺しにして晒したそうです。いかにも戦国時代って感じのエピソードですね。
さらに戦国の悲劇は、八重緑の幼い子どもたちにも及びます。八重緑は岸信周の息子・信房(孫四郎)に嫁いでいました。信長の使者・金森長近という人物が投降を勧めたところ、信房は金森の目の前で二人の子を斬首し、決死の覚悟を示したのだとか……。現代に生まれてよかったと、心から思います。
おわりに
永禄8年(1565)9月28日、中濃にあった堂洞城を巡って起きたのが堂洞合戦です。その前提には、3つの城の間で結ばれていた反信長の盟約の存在(美濃斎藤方)がありました。しかしそのうちの一つ・加治田城が信長方に寝返ったため、残りの二つの城と戦うことになったのです。激戦の末、勝利したのは信長方。翌日には斎藤方の軍勢が押し寄せたものの、信長軍はこれを退却させています。そして美濃斎藤氏との対立は、あの「稲葉山城の戦い」へと続いていくのです。
【主な参考文献】
- 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
- 『超ビジュアル! 人物歴史伝織田信長』(西東社、2016年)
- 富加町「加治田城と堂洞城」
- 中日新聞プラス「信長公記の作者である太田牛一も参戦した堂洞合戦」
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄