「佐竹義宣」関ヶ原では東軍でありながら義理を通して西軍に与した律義者!?
- 2021/09/07
戦国時代、常陸国の佐竹家は奥州と関東に勢力を築きます。佐竹義宣(さたけ よしのぶ)は家督を相続すると、豊臣政権に接近。本領を安堵され、豊臣の威光を持って常陸国内を統一。しかしその後、関ヶ原では東軍でありながら、恩義のある西軍に協力しました。
戦後、改易こそ免れましたが、常陸国を追われて秋田への転封を余儀なくされています。義宣は何を選択し、大事に思って戦ったのでしょうか。佐竹義宣の生涯を見ていきましょう。
佐竹家の領国を守り切る
常陸国の名門一族の嫡男として誕生
元亀元(1570)年、佐竹義宣は佐竹家第18代当主・佐竹義重の嫡男として常陸国の太田城で生まれました。母は伊達晴宗の娘・宝寿院と伝わります。
幼名は徳寿丸と名乗りました。元亀3(1571)年には、義宣の将来の正室が那須家から迎えることが決まっています。
天正12(1584)年、北条家と和議を締結。南方を抑えて北方への進出を企図するようになります。
天正14(1586)年ごろ、義宣は壬生氏との戦で初陣を果たしています。時期ははっきりしませんが、この後に父・義重の隠居に従って家督を相続し、第19代当主となりました。
当時の佐竹家は、奥州の伊達政宗と対立しています。政宗は会津の黒川城を落とし、蘆名義広(義宣の弟)を追放。奥州南部を制圧していました。
佐竹家は奥州での基盤を失い、関東では強大な北条家に対峙しています。さらに伊達家と北条家は同盟を結んでおり、挟撃される危険性を孕んでいました。父の義重は聞こえた猛将でしたが、この事態を打開することはできていませんでした。
義宣はここで積極的な外交政策に打って出ます。上方の豊臣秀吉に接近し、重臣の石田三成や越後の上杉景勝と誼を通じるに至ります。
豊臣政権下での活躍
豊臣家の麾下で本領安堵を果たす
天正17(1589)年、秀吉は小田原征伐を決定。義宣も命令を受けます。
翌天正18(1590)年、義宣は宇都宮国綱ら一万余りの軍勢を率いて出陣。小田原へと向かいます。
義宣は北条方の諸城を落としつつ、小田原城へ進軍しました。結果、無事に秀吉への謁見を果たしています。
その後、義宣は石田三成の指揮下に入ります。忍城攻めにおいては、水攻めの堤防建築に従事し、着実に戦功を上げています。
戦後、義宣は奥州南部の所領を秀吉から知行地として認められました。
しばらくして秀吉が会津に入り、奥州仕置を行います。
秀吉は義宣への本領安堵の朱印状を発行。常陸国および下野国の一部である三十五万石余りを安堵されました。
このときの所領の比率は、より細く決められています。所領の比重は、佐竹氏と家臣団でそれぞれ半々という割合でした。
義宣は秀吉の権威を背景に、常陸国の支配を強化。江戸氏、大掾氏ら対して攻勢を強め、佐竹家の領主権力の強化を推進していきました。このときの義宣は、上杉景勝らと並んで「豊臣政権の六大将」と称されたと伝わります。義宣が秀吉の厚い信任と声望を得ていたことが窺えます。
さらに同年、義宣は秀吉の上奏によって従四位下に任官。侍従と右京大夫に補任するに至りました。
翌年には羽柴姓を与えられています。五位以上は殿上人と呼ばれる位です。これは清涼殿への昇殿が許される身分でした。義宣は朝廷の官職の上でも優遇されたようです。
同年、帰国した義宣は反抗する国衆を次々と謀殺し、常陸国全域の統一に成功しました。
次に義宣は水戸城に居城を移転。一門の佐竹義久に同城の整備を命じました。移転の直後には、豊臣家から義宣に九戸政実鎮圧のために奥州出兵の命令が下され、二万五千人という、大変重い軍役をかけられています。
領国支配の強化と豊臣家による支配
天正19(1591)年、秀吉は諸大名に唐入りのための出兵を命令。これが長きにわたる朝鮮出兵の始まりでした。
文禄元(1592)年、義宣は水戸城から出陣。肥前国名護屋城に着陣し、出撃を待ちました。
翌文禄2(1593)年、義宣は朝鮮へ渡るように命じられます。しかし直後、渡海を見合わせるように再度命令が下ります。結局、朝鮮に渡ることはなかったようです。
義宣は朝鮮出兵の間、国許で水戸城の普請を進めています。文禄3(1594)年には、一応の完成を見ることが出来ました。
また、同年に伏見城の普請も命じられています。竣工後は城下に屋敷を与えられました。この普請は三千人を動員して十ヶ月ほど続いたようです。
文禄4(1595)年、太閤検地によって諸大名の石高が確定。義宣は五十四万石を安堵する旨の朱印状を秀吉から受け取っています。
同年に義宣は家中の知行割を一斉に転換。領主と領民との伝統的な主従関係を断絶させます。佐竹氏と家臣団の比率は、2:1となっています。
佐竹家の権力が強化される一方、領内の金山が豊臣家によって掌握。豊臣政権による統制も強化されていました。
関ヶ原ではどっちつかず
慶長2(1597)年、与力大名である宇都宮国綱が改易されました。
このとき、裏では佐竹家にも改易命令が出ていたようです。しかし義宣は石田三成と親交があったことで取りなしを得て、処分を免れています。
慶長3(1598)年、太閤となっていた秀吉が死去。翌慶長4(1599)年には、前田利家が亡くなりました。
これを契機として、加藤清正や福島正則らは対立していた石田三成の屋敷を襲撃。義宣は恩義ある三成を脱出させ、宇喜多秀家の屋敷に逃したとも伝わります。
しかし当時、三成には徳川家康の命を狙っているという風聞がありました。
義宣の茶湯の師匠である古田織部は、家康に釈明するように勧めます。しかし義宣は三成から受けた恩義を語り、謝罪を拒絶。家康はこの話を聞いて納得したといいます。
慶長5(1600)年、家康は会津征伐を決断。東国の諸大名を京に招集します。義宣もこれに応じます。義宣は仙道口担当が言い渡され、そのまま水戸へ帰還しました。
下野国小山に着陣した家康は、水戸の義宣に使者を派遣。会津討伐を改めて命じています。
このとき家康は人質を上洛させるように要求していますが、義宣は拒否しました。佐竹家では、東軍か西軍につくか意見が割れていたようです。
義宣は、上杉景勝との間で味方する旨の密約を締結。北への進軍を取り止めています。
佐竹家内部では、積極的に西軍につく空気はそれほど強くなかったことから、どうやら義宣の独断で密約が交わされたようです。
結局、義宣は水戸城へ撤退。家康に帰還理由を釈明する使者を派遣しています。
このとき、父・義重は東軍につくべきだと強く主張。義宣はやむなく徳川秀忠の援軍に三百騎を派遣していますが、積極的に家康に味方することはありませんでした。
久保田藩の礎を築く
秋田への大減封
結果として、関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わります。
義重はすぐさま家康に戦勝を祝う使者を派遣した上、不戦を謝罪しています。
秀忠からの礼状は届いたものの、義宣は水戸城を動かずに二年の月日が経過していました。
全国では、西軍に加担した戦後処理が終わっています。残るのは佐竹家のみとなっていました。
やがて義宣は上洛を決意。これには義重の説得があったようです。
義宣は伏見に向かう途中相模国で秀忠と面会。その後、伏見城で家名存続を懇願しています。家康は一連の義宣の態度を「律儀」だと評しています。
慶長7(1602)年、義宣は大坂城の豊臣秀頼と家康に謁見。直後、国替えの命令を受けています。
減封を覚悟していたようで、義宣は扶持の削減や一部の家臣は転封先に連れて行けないこと等、書状に残しています。
転封先は出羽国秋田郡二十万石に決定。石高は従前の五十四万石から大幅な減封となりました。
久保田藩の初代藩主となる
慶長7(1602)年、義宣は秋田の土崎湊城に入城。諸城を拠点に内政を行いながら、仙北地方の一揆を平定して領内の安定を図っています。
慶長8(1603)年、久保田城を居城とします。このとき、父・義重は横手城を居城にすべきと主張しましたが、義宣は譲りませんでした。
義宣は人材登用にも積極的に取り組んでいます。
渋江政光や須田盛秀ら奥州の旧大名の遺臣たちを召し抱え、開墾を進めていますが、家老の川井忠遠らが、義宣らの暗殺を計画するなど反発も起きていました。結局、義宣は川井らを粛清して決着しています。
徳川方として大坂の陣に参戦
慶長19(1614)年、大坂冬の陣が勃発。義宣は徳川方として出陣しています。
義宣は玉造口で豊臣方の木村重成らと交戦。この今福の戦いでの勝利が戦況に大きな影響を与えます。
幕府における佐竹家の評価は高かったようです。冬の陣において幕府から感状を受けた十二名の中に、佐竹家の家臣が五名含まれていました。
他藩の藩主と後継者とする
義宣には男子が二人いましたが、いずれも夭折していました。これにより、分家の当主となっていた弟の義直を嫡子とします。
しかし寛永3(1626)年、義宣は義直を廃嫡。江戸城の猿楽見物中に義直が居眠りし、宿敵であった伊達政宗から注意されるという失態を演じたからだと伝わります。
まもなく義宣は大御所である秀忠から、岩城吉隆(義宣の甥)を新たな後継者とする許可を得ています。
吉隆は既に亀田藩の藩主でした。他藩の藩主を後継者にするというのは、義宣が秀忠から全幅の信頼を得ていたからだといえます。
寛永10(1633)年、義宣は江戸の神田屋敷で亡くなりました。享年六十四。法名は浄光院殿傑堂天英大居士。墓は秋田の天徳寺にあります。
【主な参考文献】
- 渡辺誠『〈伊達政宗と戦国時代〉実力伯仲! 伊達政宗の政敵たち』 学研 2015年
- 渡辺景一『佐竹氏物語』 無明舎出版 1980年
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