【解説:信長の戦い】志賀の陣(1570、滋賀県大津市) 信長がもっとも苦しんだ戦い?浅井・朝倉と長期の対峙。
- 2023/11/02
浅井・朝倉連合軍と対峙した「志賀の陣」は、織田信長が最も苦しんだ戦いと言われています。信長といったら、他にも苦しめられた戦いがたくさんありそうですけど……。
人々にそう言わしめた志賀の陣、いったいどのような戦いだったのでしょう。気になりますね。
人々にそう言わしめた志賀の陣、いったいどのような戦いだったのでしょう。気になりますね。
合戦の背景は?
織田信長は元亀元年(1570)4月の金ヶ崎の戦いのときに、義弟・浅井長政の離反に遭います。その後、翌月には姉川の戦いで勝利を収めますが、依然として浅井・朝倉連合軍との対立は続いていました。一方、信長は上洛以来、三好三人衆(三好長逸・岩成友通・三好政康)とも対立しています。同年7月には、三好三人衆を中心とする軍勢が動きました。摂津の野田と福島(現大阪市福島区)に砦を築き、立て籠もったのです。信長の周りは敵ばかりだったのです。
このままでは、畿内が危険です。京都の足利義昭から連絡を受け、信長は8月に岐阜を出陣します。そして摂津で三好方と戦っている最中(野田城・福島城の戦い)、今度はそれまで友好的であった石山本願寺が、信長方に突如攻撃を仕掛けてきたのでした。
志賀の陣は、まだ信長が石山本願寺と戦っているときに始まります。顕如(けんにょ)率いる本願寺勢は手強く、信長がかなりてこずっていた頃でした。
好機とみた浅井・朝倉連合軍が南下、宇佐山城を攻撃。
同年9月19日、浅井・朝倉軍は3万という兵力でもって南下し、近江・宇佐山城(現滋賀県大津市)への攻撃を開始します。翌日にはその軍勢に、1万を超える一向一揆も加わりました。すなわち、顕如と浅井・朝倉は通じていた(さらに三好三人衆とも)と考えられるのです。大軍を迎え撃つことになった宇佐山城ですが、その軍勢はわずか3千。城はなんとか持ちこたえたものの、森可成(よしなり)ら数百人が戦死(宇佐山城の戦い)。一方、勢いづいた浅井・朝倉軍はそのまま京都へと進軍。山科や醍醐に放火し、二条の将軍御所を目指したのです。
知らせを聞いた信長は京都へ戻る。
9月22日、いまだ本願寺と対峙していた信長のもとに、浅井・朝倉軍の京都進出の報せが届きました。将軍御所には幕府の奉公衆たちがいましたが、大軍に太刀打ちできるはずはありません。そこで信長は、明智光秀と柴田勝家の軍を派遣します。ところが事態を重く見た勝家は、すぐに応援を要請。そこで浅井・朝倉と対決するため、信長は石山本願寺との戦いを切り上げることにしたのです。9月23日の夜には、軍全体を天満森(てんまがもり)に集め、一斉に退陣させています。仕事が速いですね。
比叡山でにらみ合いに
比叡山に逃げ込む浅井・朝倉連合
信長軍は、その日のうちに京都に到着。一方、信長の帰京を知った浅井・朝倉両軍は、京都の北東・比叡山延暦寺へと逃走したのです。山に入られては、簡単に攻撃できません。どうしよう……そうだ、延暦寺のお坊さんたちに協力してもらえばいいじゃない!
信長は、延暦寺の僧を10人ほど呼び寄せました。そして浅井・朝倉の味方にならないよう、説得します。織田の味方をしてくれたら良いことあるよ。中立の立場を取ってくれてもいいんだよ、と。そして「あっちに味方したら、延暦寺焼き払うよ?」という脅し文句もちゃんと添えて。
信長はこれらを口頭で伝えただけでなく、朱印状までしたためました。
ところが延暦寺は、これを無視するわけです。まさか翌年、本当に寺を焼き払うとは思っていなかったのでしょうね(比叡山焼き討ち)。思いませんよね、普通。
3カ月間の持久戦
待てど暮らせど、延暦寺からの返事はありません。信長は持久戦を覚悟し、9月25日にはほぼ総軍でもって、比叡山のふもとを取り囲みました。なんとこの状態が、3カ月も続いたのです!とはいえ、ただ待っているわけにもいかないですよね。そこで10月20日、朝倉義景に使者を送り、「一戦交えて決着を付けよう」と伝えました。ですが義景は、むしろ和睦を申し入れてきたのです……いや、そういうわけじゃないんだよ。
こうして信長は攻撃をしかけることもできず、3カ月もの時が流れていきました。これは信長の戦歴の中でも、最長だそうです。
唯一の衝突となった「堅田の戦い」
織田と浅井・朝倉両軍のにらみ合いが続いた志賀の陣ですが、一度だけ戦闘がありました。堅田(かただ)の戦いです。堅田(現滋賀県大津市)は昔から地侍たちが力を持ち、独立性の強い地域でした。本願寺の勢力も強まっており、志賀の陣の当時は “一時的に” 朝倉氏の支配下にあった場所です。
にらみ合いの真っ只中であった11月25日、堅田の地侍である猪飼野昇貞(いかいの・のぶさだ)・居初(いそめ)又次郎・馬場孫次郎が信長に通じてきました。信長は早速、重臣の坂井政尚(まさひさ)を1千の兵とともに、堅田に乗り込ませます。
一方、朝倉義景もこの動きを察知。翌日には前波景昌(まえば・かげまさ)らの軍を堅田へと送り込みました。さらにその翌日には、一向宗の門徒たちも朝倉軍に加わることになります。
その後、堅田の地侍たちも真っ二つに分かれ、激戦が繰り広げられたようです。織田方は5百、朝倉方は8百もの戦死者が出ています(『言継卿記』)。織田方の主将・坂井政尚も討死し、堅田の戦いは朝倉軍の勝利に終わりました。
合戦の結果
結局、志賀の陣は勝敗が付かず、織田と浅井・朝倉は講和を結ぶことで終結します。堅田の戦いはあくまでも局地戦であって、両軍の主力同士は比叡山でにらみ合ったまま。3カ月も身動きが取れないのですから、お互いに “不都合” が出てきたのです。
和睦したい両軍の理由
信長のもとへは、長島で一向一揆が蜂起し、小木江(こきえ)城の織田信興(信長の弟)が殺されたという情報が伝えられていました。そういえば、岐阜を出発したのは8月のこと。国元の情勢が心配です。一方、浅井・朝倉軍も兵糧が尽きてきます。特に朝倉軍は雪が積もると、越前へと帰れなくなるおそれもありました。
堅田の戦いが終わった頃から、両者は和睦へと向かいます。そこで信長は、将軍と天皇に働きかけることに。すると関白・二条晴良(はれよし)が動き、将軍義昭とともに調停役を務めたのです。
晴良は朝倉の陣に使者を送り、義景を説得。義景も使者を陣に留め、浅井と延暦寺の意向を尋ねるなど、和睦に前向きな姿勢を見せました。順調に事が進みそうですね。
和睦の成立
しかし、晴良の提案した調停案に唯一、異議を唱えたのが延暦寺でした。晴良は正親町天皇に、延暦寺領の安堵の旨が書かれた綸旨(りんじ)を出してもらい、ようやく延暦寺にも承知させたのです。こうして12月13日、織田と浅井・朝倉との間に和睦が成立し、双方は人質を交換しました。翌14日には信長軍が、15日には浅井・朝倉軍が戦地を引き揚げ、およそ3カ月にわたった志賀の陣は幕を下ろしたのです。
おわりに
比叡山を包囲するも、身動きの取れなくなった「志賀の陣」。信長が最も苦しんだ戦いとは、そういうことだったのですね。なるほど、戦場で何もできないほど、武将には辛いことはないのかもしれません。さらに志賀の陣において、信長は比叡山延暦寺までも敵に回してしまいました。これが翌年の焼き討ちへと続いていくわけですから、信長の恨みは相当なものだったのでしょう。
【参考文献】
- 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
- 谷口克広『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年)
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
- 矢部健太郎『超ビジュアル!歴史上人物伝 織田信長』(西東社、2016年)
- 小和田泰経『信長戦国歴史検定公式問題集』(学研パブリッシング、2012年)
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