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徳川家康が愛した3つの名刀伝説!「剣士」の素顔と天下泰平を願った秘話

  • 2025/11/06
 日本史上、最長の武家政権を確立した武将「徳川家康」。戦国の世を最後に制した覇者といえます。老獪な政治力を駆使したイメージが強い家康ですが、その裏には弱肉強食の世を生き抜いた「戦士」としての素顔が隠されています。

 その証の一つが刀剣です。家康は武将らしく、刀剣を殊のほか愛したことでも知られています。本コラムでは、そんな家康が愛した名刀とその興味深いエピソードをご紹介します。

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家康は正真正銘の“剣士”だった

 家康は若年よりいくつかの剣術流派を修行し、高い技量を有していたといわれています。

 将軍家指南役として有名な「小野派一刀流」や「柳生新陰流」も、家康がその価値を見出したものです。戦国武将のなかで、将たる家康が個人として剣の技量を磨いたのは珍しいタイプといえるでしょう。というのも当時の主兵装は槍であり、刀を抜いて一対一で戦うスタイルは副次的なもの考えられていたからです。

 それでも家康が剣を磨いたのは、単体での戦闘力に加え、戦がなくなった時代にこそふさわしい術だと見越していたからかもしれません。そして、自らも剣士であった家康は、その魂ともいえる刀剣に深い愛着を示し、多くの名刀を所持しました。

本当に妖刀?「村正」の謎

 徳川家にかかわる刀剣で、必ず名が挙がるのが「村正」です。

 この刀工の作は、家康に近しい人物の命を奪ったり、家康自身を傷つけたりしたと伝えられ、徳川家に祟る「妖刀」とされてきました。ところが、家康自身が村正の刀を所持していたこと、家臣の中にも村正系の刀を持つ者がいたことから、家康が必ずしも村正を忌避したわけではないと考えられています。

妖刀伝説で有名な「村正」
妖刀伝説で有名な「村正」

 村正は、家康の出身地である三河地方の圏内にあたる伊勢桑名の刀工です。よく切れる実用刀でありながら、比較的安価で量産されていたのが特徴で、当時は多くの武将が愛用したとされています。

 家康が怪我をした、身辺での刃傷に使われた、といったエピソードが多いのは、それだけ村正がポピュラーな刀であったことの裏返しともいえるでしょう。

 ちなみに、妖しい魅力をもつと評される村正ですが、意外なことに現在国宝や重要文化財に指定されているものは一振りもありません。

灰塵から回収された名脇差「鯰尾藤四郎」

 家康が愛した刀剣は、大刀だけではありません。「脇差」や「短刀」などの短い刀にもこだわりがあったようです。その一つが「鯰尾藤四郎」と呼ばれる脇差(徳川美術館での表記は「脇指」)です。

 刃長約38.5cm、「吉光」の銘が切られており、短刀の名手・粟田口派の藤四郎吉光の作であることがわかります。この不思議な名前は、切っ先の曲線が「鯰の尻尾」のようにふっくらしていることから名付けられたといいます。もともとは小薙刀だったものを磨り上げた「薙刀直し」というタイプです。

 織田信長の次男・信雄の手から豊臣家に伝わりましたが、大坂夏の陣(1615)で炎上してしまいます。しかし、これを惜しんだ家康は、その他の名刀とともに灰の中から回収させました。その後、焼き直しと研ぎ直しを経て、その輝きを取り戻したのです。

大坂城が落城する場面(『真田徳川大阪軍記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
大坂城が落城する場面(『真田徳川大阪軍記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 一度焼けてしまった刀は武器としての性能は失われますが、「名物」として尾張徳川家に伝来し、現在では徳川美術館が所蔵しています。

家康最後の愛刀、「ソハヤノツルキ」

 最後に、家康最後の愛刀ともいえる有名な刀をご紹介して、まとめとしましょう。

 それは久能山東照宮に祀られている「妙純傳持(みょうじゅんでんじ)ソハヤノツルキウツスナリ」です。単に「ソハヤノツルキ」、あるいは無銘ながら三池光世の作と伝わることから「三池の御刀」とも呼ばれる宝刀です。

 この不可思議な名前の由来にはさまざまな説がありますが、一つずつ読み解いてみましょう。

  • 「妙純傳持」:美濃国の守護代であった「斎藤妙純」という人物が所持していたことを示す、と考えられています。
  • 「ソハヤノツルキ」:征夷大将軍・坂上田村麻呂の「騒速(そはや)」という大刀を思い起こさせます。
  • 「ウツスナリ」:「剣を写したもの」といった意味。もっとも、田村麻呂の時代の刀剣は家康の時代とは異なる直刀の姿だったため、「号」のみをあやかったものとされています。

 まとめると、「妙純が所持し伝えた、騒速の剣を写したる刀」といった文脈になるでしょう。その真意までは定かではありませんが、家康は最晩年にこの刀をこよなく愛したとされています。

 分類は太刀ですが、外装は腰に吊り下げる太刀拵えではなく、帯に差す「打刀拵え」になっているのが特徴です。また、刃長も二尺二寸三分(約67cm)と定寸より短いことも特徴です。

 『徳川実紀』には、家康がこの刀を愛し、自身なき後は切っ先を西に向けて久能山に安置するよう遺言したことが記されています。

 これは、いまだ政情が不安定だった西国へのにらみを刀の武威に託し、自らがいなくなった後も徳川幕府の平安を祈る強烈な意志を示すものといえるでしょう。いわば家康が冥土にまで携えたものとも解釈でき、これこそ家康永遠の愛刀と言えるのかもしれません。


【参考文献】

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  この記事を書いた人
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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