銀座の夜を彩った〝光の柱〟昭和の東京を代表した夜景が消える

解体が決まった三愛ドリームセンター

 昨年2月、三愛ドリームセンターが老朽化のため建替えられるという発表があった。

 それを聞いてなんだか、寂しさがこみあげてくる。銀座 4 丁目交差点に建つこの円筒形のビルは、昔から銀座を代表する建物のひとつだったのだが……。

 道の向かい側にある和光(旧服部時計店)とともに、昔の映画やテレビドラマの背景にもよくでてくる。それは、昭和時代の東京を象徴する眺めだった。

 昭和40年代の頃には、民放の放送終了時に銀座の夜景が映しだされていた。地球儀型の「森永ミルクキャラメル」や星型の「ナショナルテレビ」など巨大なネオンが夜空に煌めく。なかでも、ガラス張りのビル全体が燦々と輝く三愛ビルが強く印象に残っている。

 また、昭和時代のプロレス・ファンにはとくに、この建物は思い出深い。70年代初頭のプロレス中継は三菱電機一社提供の「三菱ダイヤモンド・アワー」として放送されていた。放送開始時には「スポーツ行進曲」とともに、タイトルバックに三愛ドリームセンターが映される。

 ジャイアント馬場やアントニオ猪木の勇姿とともに、三愛ドリームセンター最上部で光り輝く三菱のネオンが脳裏に浮かぶ。

戦後の銀座を象徴するランドマークの誕生

 三愛ドリームセンターの建替えが発表されてから約半年が過ぎた令和5年(2023)7月末、銀座4丁目交差点に行ってみた。

2023年7月撮影。解体工事中の三愛ドリームセンター
2023年7月撮影。解体工事中の三愛ドリームセンター

 すでに取り壊し工事は始まっている。防音と粉塵防止のため建物全体がパネルで厳重に覆われ、全面ガラス張りの外観を見ることはできない。もう光り輝くことはない。銀座からまたひとつ昭和時代の灯が消えた。 

 ここで三愛ドリームセンターの歴史にふれておこう。

 戦前、この場所には六十九銀行(北越銀行の前身)銀座支店があった。それが空襲で瓦礫と化した後、跡地をリコー創業者の市村清が購入し、2階建ての三愛ビルを建てた。

 ちなみに「三愛」は小売業を主な事業とするリコーの子会社。当時の三愛ビルは食料品や生活雑貨、文具、衣料など様々な商品が売られる庶民的なマーケットだった。現代でいうならドン・キホーテのような店だったのだろうか?

 昭和30年代になり、日本が豊かになってくると、三愛ビルで売られる商品にもオシャレな女性向きの衣料が増えてくる。この頃は、渋谷の 109 みたいな感じになっていたのかも。しかし、終戦直後の建物なだけに、使われていた建材が粗雑で老朽化も早く、ファッションを売るには雰囲気がよくない。そこで、ビルの改築工事をおこなうことになった。

 昭和38年(1963)1月に改築工事が完了。新しいビルの名称は公募により、三愛ドリームセンターに決まる。

 市村は数々の企業を創業した戦後経済界の風雲児、常識に囚われないユニークな発想でよく人を驚かせた。この建物もまた、そんな彼のキャラクターを反映したものだった。

竣工当時の三愛ドリームセンター
竣工当時の三愛ドリームセンター

 ガラス張りで円筒型のビル、当時はかなり珍しく目立つデザインだった。また、高さ48メートルの9階建は、この時代有数の高層建築でもある。それが銀座の一等地にあるのだから、当然のこと注目が集まる。

「美しく着飾ったモデル嬢を数人のせたゴンドラが、ドラムのリズムに合わせて上がりはじめると、二階、三階、四階と順々に灯がともって、やがて銀座の夜空に四十八メートルの光の柱を浮かび上がらせた」

とは、市村の立志伝『茨と虹と』(尾崎芳雄・著)に書かれていたオープニングセレモニーの様子。4丁目交差点付近には、新名所をひと目見ようと大勢の見物客が押し寄せ、灯がともされると大歓声があがった。

三愛ドリームセンターのオープニングセレモニー
三愛ドリームセンターのオープニングセレモニー
当時の三愛ドリームセンター上層階からは銀座の街が一望できた。
当時の三愛ドリームセンター上層階からは銀座の街が一望できた。

 この瞬間に、戦後の銀座を代表するランドマークが誕生した。

 ビルの下層階は三愛の店舗などが入っていたが、4階から上は三菱電機が借り切ってショールームに。ビル最上部のいちばん目立つ場所には、三菱のロゴを描いた巨大なネオンが設置された。

 私の頭のなかに思い浮かぶ三愛ドリームセンターは、いつも最上部に三菱のダイヤモンドマークが煌めいている。昭和時代を生きた世代には、同じイメージを抱いている人が多いと思う。

 しかし「三菱」のネオンは平成2年(1990)に撤去され、昭和という時代とともに消え去っている。
 その後は広告主が目まぐるしく変わり、平成18年(2006)からはずっと最上階のネオン広告「RICOH」だった。

1967年、三菱電機が広告主だった頃の三愛ドリームセンター(出典:wikipedia)
1967年、三菱電機が広告主だった頃の三愛ドリームセンター(出典:wikipedia)
1999年、コカ・コーラが広告主だった頃の三愛ドリームセンター(出典:wikipedia)
1999年、コカ・コーラが広告主だった頃の三愛ドリームセンター(出典:wikipedia)
2012年撮影。リコーが広告主となってからの三愛ドリームセンター
2012年撮影。リコーが広告主となってからの三愛ドリームセンター

 「三菱」のネオンが煌めいていたのは、この建物の歴史の半分にも満たない。なくなってからはすでに34年の歳月が流れている。

 4丁目交差点にはよく来ていたし、三愛ドリームセンターはいつも目にしていたのだが。現実を見ていなかった。昭和時代のイメージのまま、三菱のネオンがまだそこにあるような気がしていた……。

カフェ2階席からの眺めもまた懐かしい

 今年4月、再び銀座4丁目交差点に行ってみると大型クレーンが設置され、4階部分くらいまで撤去が進んでいた。さらに 8 月になると撤去は 1・2 階の部分を残すのみとなっているが、解体工事はまだ終わらない。

2024年4月撮影。建物の半分程度が解体された三愛ドリームセンター
2024年4月撮影。建物の半分程度が解体された三愛ドリームセンター
2024年4月撮影
2024年4月撮影
2024年4月撮影
2024年4月撮影
2024年8月撮影。1・2 階の部分を残すのみとなっている。
2024年8月撮影。1・2 階の部分を残すのみとなっている。
2024年8月撮影
2024年8月撮影

 工事が始まってから1年以上が過ぎている。普通のビルの解体工事と比べて、かなりペースが遅い。人通りの多い場所だけに環境への配慮、瓦礫や廃材の運びだしなどで難しい問題があり、慎重に進めているようだ。

 建設工事の時も大変だったという。昼も夜も絶え間なく大勢の人々が行き交い、しかも、敷地が狭くて建設資材を置く場所がない。そのため普通の建物とは逆の順序で、上階から先に床を作ってゆく珍しい手法が取られた。

 建物中央のエレベーターを軸に、輪状の床が幾層にも重なる独特の構造。建設時にはその形状や工事の様子が、通りを歩く人々からもよく見えたようである。界隈のオフィスでは、工事の進捗状況がいつも話題になっていたという。

三愛ドリームセンター建設当時(1962年)の様子
三愛ドリームセンター建設当時(1962年)の様子

 残念ながら、現在の解体工事は防音壁に覆われて、建物の構造も工事の状況もよく分からない。人々の話題になることもなく粛々と解体は進められ、いよいよ最終段階。最後の階層が取り壊されようとしている。

 この最後に残された 1・2 階部分には、近年になってからドトール・コーヒーチェーンの最高級店「ル・カフェドトール」がテナントで入っていた。たしか全国に 2〜3店舗しかない超レアな店で、晴海通り沿いに並ぶテラス席はパリのカフェみたいな雰囲気があった。
 私も何度が入ったことがある。他のコーヒーチェーン店の倍くらいの価格設定、その値段に見合って席はゆったり広い。午前中の時間帯は客が少なく、2階席は静かで居心地よかったことを覚えている。

2012年撮影。三愛ドリームセンター2階「ル・カフェ・ドトール」から交差点を望む
2012年撮影。三愛ドリームセンター2階「ル・カフェ・ドトール」から交差点を望む

 カウンター席に座ると正面の大きなガラス張りに、時計台を仰ぎ見る絶景が広がっている。この景色を眺めながら飲むコーヒーが格別だった。

 ここで、ふと思う。

 もっと上の階からの眺めは、どんなだったろうか。と、気になってきた。3階から上にも店舗があり、最上階にはフォトギャラリーとかあったはずだが。私は2階のカフェより上の階には登ったことがない。

「上の階にも行っておけばよかったなぁ」

 全面ガラス張りの最上階から眺める銀座の景色。もう見ることのできない幻の眺望が、とっても気になってきた。

 後の祭り……ということだな、これは。

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  この記事を書いた人
青山誠 さん
歴史、紀行、人物伝などが得意分野なフリーライター。著書に『首都圏「街」格差』 (中経文庫)、『浪花千栄子』(角川文庫)、 『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社)、『戦術の日本史』(宝島文庫)、『戦艦大和の収支決算報告』(彩図社)などがある。ウェブサイト『さんたつ』で「街の歌が聴こえる』、雑誌『Shi ...

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