藤原道長、意外と病弱? 栄華の裏で糖尿病進行、晩年は壮絶闘病
- 2024/11/01
藤原道長は若い頃から気力充実のエピソードも多く、約20年間も政権を運営したのでタフなイメージがありますが、意外と病気がちでした。そのため、辞職を願い出たり、長期間欠勤したりします。また、50代から糖尿病が進行。合併症とみられる症状に悩まされ、晩年の闘病生活は相当深刻でした。道長の健康状態をクローズアップしていきます。
30代 政権初期の大病「声望浅く…」弱気な辞表
『大鏡』に描かれた藤原道長は、藤原伊周との弓矢の勝負で圧勝したとか、兄の藤原道隆、道兼が怖じ気づいた闇夜の肝試しでも豪胆さをみせたとか、快活な性格が強調され、病弱さとは無縁のイメージがあります。しかし、実際には、日記『御堂関白記』に病気の記録も多く、決して健康優良児ではありません。マラリア? 悪寒と高熱の「瘧病」で重症に
藤原道長の政権がスタートした長徳元年(995)、多くの貴族が疫病の流行で倒れる中、道長は見事に生き残りました。では、病気に強いのかといえば、そうでもなく、長徳4年(998)、33歳のとき、大病します。その前年の長徳3年(997)夏頃には瘧病(ぎゃくびょう)にかかり、一時、重症に陥りました。「おこり」ともいわれた瘧病は悪寒と高熱が繰り返すもので、マラリアだったようです。出家、辞任の意思…短命政権に終わった可能性
藤原道長は長徳4年(998)、大病で3月に出家を願い出ています。どんな病気かは分かりませんが、一時重篤になり、回復までに半年近くかかりました。『本朝文粋』に残る辞表には「自分は声望浅く、才能もたしたことはない。母后(一条天皇の母・詮子、道長の姉)の兄弟ということで序列を超えて昇進し、父祖の七光りで登用された。2人の兄は地位の重さに早死にした」
と、政権担当の重圧で病気になったと言わんばかりの弱音を漏らしています。
道長側近・藤原行成の『権記』によると、7月15日、使者が行成に「左大臣(道長)の症状ははなはだ重く、存命も難しい」と告げており、道長の症状は死を覚悟するほど重篤化していました。8月になっても回復しない道長は行成に託し、またも辞表を提出。辞任の意思は固かったのですが、「申すことは切実であっても、すぐに辞表を収めるわけにはいかない」と、一条天皇から慰留されました。
健康状態が回復し、道長が出仕を再開したのは9月下旬。この間、一条天皇が辞表を受理していたら、道長は短命政権で終わっていたのです。
食中毒? 父の法要後、夜通し苦しんだ「霍乱」
寛弘元年(1004)7月2日、藤原道長は「霍乱(かくらん)」に苦しみました。下痢や嘔吐など急性胃腸炎の症状です。『御堂関白記』には「亥の刻(午後10時頃)、急に霍乱を病んだ。心身不覚となり、夜通し苦しんだ」と書かれています。この日は亡父・藤原兼家の命日で、道長は法興院を参詣。法要の食事「斎食(さいじき)」の後、帰宅して発症しています。食中毒だったようです。
47歳 道長邸から人魂 たびたびの発病と怪異の風聞
藤原道長は、寛弘2年(1005)12月、寛弘4年(1007)正月、寛弘7年(1010)11月、長和4年(1015)1~2月など、40~50歳の間、たびたび「咳病(がいびょう)」を患いました。文字通り、咳(せき)が主な症状で、いわゆる風邪です。『御堂関白記』によると、寛弘4年の咳病では内裏の行事を欠席し、寛弘7年は3日間ほど重い症状が続いた後、体調が回復したことが記録されています。長和4年はインフルエンザ流行期と重なっています。
病死を覚悟し、娘を案ずる心情を実資に泣訴
藤原道長は47歳の長和元年(1012)、たびたびの発病と怪異現象に悩まされます。特に6月は『御堂関白記』の記録が抜け落ち、日記を書けるような状態ではなかったようですが、この間の事情は藤原実資の『小右記』で分かります。道長は激しい頭痛に悩まされ、6月2日に頭痛は治まりますが、体調は悪く、人との面会は避けています。そして、6月4日に内覧と左大臣の辞表を提出。三条天皇は受理せず、即座に返却しますが、6月8日に再び辞表を提出しました。
6月9日には藤原実資に涙ながらに心情を吐露。かなり弱気になっていました。
道長:「今日は具合も良いのだが、この症状は通常ではない。もはや生きることはできないであろう。命を惜しむものではないが、院(一条天皇)に先立たれた皇太后宮(一条天皇の中宮だった彰子)のことだけが気がかりだ」
道長は長女・彰子の身の上を案じるほど切羽詰まった心境でしたが、これは死に至る病ではありませんでした。
政敵の呪詛? 道長発病を喜ぶ5人組の噂
長和元年(1012)6月8日、藤原道長の邸宅・土御門第から人魂が上がったという話があり、翌日、トビがネズミの死骸を道長の目の前に落とします。さらに6月10日、道長が法性寺を参詣し、お堂に入ったとき、やや大きなヘビが堂の上に落ちてきたといいます。突如、道長の周囲に怪異現象の風聞が広がります。6月17日には「藤原為任が陰陽師5人に道長を呪詛させている」という落書が道長のもとに届けられます。為任と道長はそれぞれの祖父が兄弟という間柄。為任は弟・通任よりも昇進が遅く、道長の評価は低かった人物です。
さらに、6月20日、「道長の病悩を喜ぶ公卿が5人いて、道綱(道長の異母兄)、実資、隆家(道長の甥)、懐平(実資の養子・資平の実父)、通任である」という噂も。道長は実資に「そのような噂は信用していない」と話していますが、道長の健康問題は政局と直結しているのです。怪異の噂と合わせ、道長は政敵の呪詛で発病したと考えていたかもしれません。
50代 「口が渇く」視力減退 糖尿病の症状顕著に
長和4年(1015)閏6月19日、50歳の藤原道長は、小南第で打橋から落ち、左足をけがします。翌日の『御堂関白記』には、足が腫れ、「痛いことはどうしようもない」と書いています。ハスやカワヤナギの樹液で患部を洗い、治療しますが、治ったのは8月。その間、足や尻の肉はやせ、牛車に乗るにも他人の助けが必要でした。骨折だったようです。「望月の欠けたることもなし…」栄華の裏で
長和5年(1016)以降、藤原道長は口の渇きや視力減退といった症状をたびたび訴えるようになります。口が渇き、水をよく飲むので「飲水病」といわれた糖尿病の症状です。道長:「3月からしきりに水を飲む。特に最近は昼夜、多く飲む。口が渇いて力が出ない」
道長は藤原実資に症状を明かしています。2年後の寛仁2年(1018)10月17日には視力の減退を実資に吐露。話している相手の実資の顔がよく見えないという重症ですが、このとき、実は栄華の絶頂期でした。
〈この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたる事も無しと思へば〉
三女・威子が後一条天皇の中宮となったことを祝う宴席で、自身の栄華を満月にたとえる和歌を詠んだのは、視力減退を吐露する前日だったのです。
糖質に偏った食生活 糖尿病の家系?
藤原道長の視力はさらに悪化し、寛仁3年(1019)にも目の前の人の顔が見えず、手に取った物しか見えないという症状を訴えています。糖尿病の合併症で網膜がダメージを受けたとみられ、症状はかなり進行していたようです。糖尿病は生活習慣病であり、食生活も影響します。当時の酒がにごり酒で糖度が高く、仏教の影響で肉食は避けられる一方で、白米が中心の食生活は糖質に偏っています。また、遺伝的要素もあります。道長の伯父・伊尹(これただ)や兄・道隆らが「飲水病」だったという記録があり、糖尿病の多い家系だったことも指摘されています。
道長は晩年、仏道修行のため肉食を断っていましたが、症状の進行に伴い、陰陽師や医師から魚を食べることを勧められました。その殺生の罪滅ぼしとして法華経1巻を書写しています。
背中に腫物でき針治療 感染症か皮膚がんか
藤原道長は腫物にも悩まされました。熱を持った腫物を「熱物」と呼び、寛弘4年(1007)4月に腰、長和3年(1014)にはうなじに熱物ができ、寛仁2年(1018)6月には頭にできた熱物で冠が着用できなかったという有様でした。万寿4年(1027)6月、道長は体調を崩し、10~11月に痢病(下痢を伴う病気)が相当ひどくなり、失禁もありました。さらに背中に腫物ができ、針治療を受けます。糖尿病による免疫力低下で皮膚感染症を患ったのか、皮膚がんだったのか……。苦しい闘病生活中、道長死去の誤報もたびたび流れました。
おわりに
万寿4年(1027)12月4日、藤原道長は62歳で死去。『栄花物語』は、念仏を唱えつつ往生を遂げたとしていますが、実際には壮絶な闘病に悶え苦しんだようです。後半生は糖尿病に相当苦しめられ、若い頃から病気がちな体質ながらも約20年も政治を動かした道長はやはり相当タフな人物だったと言えます。【主な参考文献】
- 倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(講談社、2009年)講談社学術文庫
- 倉本一宏『藤原行成「権記」全現代語訳』(講談社、2011~2012年)講談社学術文庫
- 倉本一宏編『現代語訳小右記』(吉川弘文館、2015~2023年)
- 大津透、池田尚隆編『藤原道長事典』(思文閣出版、2017年)
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