元禄文化と化政文化の違いとは? 文化から見える時代の流れ

 元禄文化と化政文化は、江戸時代の二大文化として知られている。どちらも現代に残る多くの芸術や優れた学者・文化人を生み出した。260年余りに及ぶ江戸の泰平で花開いた多くの芸術・文化は今や世界に誇る日本の宝ともいえる。

 この2つの文化はそれぞれ異なる特徴を持っており、じっくりと調べてみるとどちらも魅力たっぷりだと今更ながら気づかされた。そこで今回は元禄文化と化政文化が起こった時代背景を探るとともに、それぞれの文化を代表する人物に注目してみた。

元禄文化と化政文化の大きな違いは地域と担った人々

 元禄文化と化政文化の違いとしてまず知っておくべきことは、それが生まれた時期と地域である。

 元禄文化は元禄年間(1688~1704)前後を中心とした時期で、化政文化は文化・文政年間(1804~1830)前後を中心とした時期とされ、その間には約100年の隔たりがある。文化が生まれた地域や主な担い手も大きく異なる。元禄文化は上方(= 京都付近のこと)の豪商や町人の間で花開き、化政文化は江戸(= 東京の旧名)で発生し、次第に全国的な広がりを見せた町衆中心の文化である。

 どちらの文化においても美術工芸・文学・学問・芸術分野で多くのすぐれた作品が生まれているが、その作品たちにもそれぞれに面白い特徴があった。その大きな要因として考えられるのが、時代背景である。

上方を中心に栄えた華麗な元禄文化

 元禄時代といえば、第4代将軍・徳川家綱から第5代将軍・綱吉になったころだ。戦国時代が終わりを告げて数十年が過ぎている。

元禄文化の時代背景と特徴

 家綱の時代、由井正雪が牢人たちを主導して幕府転覆を狙ったとされるクーデター未遂事件が起こる。いわゆる慶安の変(1651)である。

 すでに戦は過去のものとなりつつあった中で、時代を逆走しかねなかった牢人たちの暴走はこの事件をきっかけに抑えられていった。次第に穏やかな時代に向かいながら家綱から綱吉へ。元禄文化が隆盛したのはちょうどこの時期である。


 実は元禄文化が起こる少し前には寛永文化が生まれている。第3代将軍・家光の治世時期にあたり、豪華な桃山文化を継承したもので、幕府・朝廷のほか、豪商が担い手となっている。

 寛永文化の代表的な建築・作品・人物としては、京都の桂離宮・修学院離宮、絵画では俵屋宗達の『風神雷神図屏風』・狩野探幽の襖絵、工芸では本阿弥光悦などである。徳川家康を祀った日光東照宮も寛永文化を代表する建築ではあるが、京をはじめとする上方にその中心があったと考えられる。

本阿弥光悦の肖像(『光悦 天』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
本阿弥光悦の肖像(『光悦 天』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 この流れの先に寛永文化の豪華さを残しつつ人間味を重視した元禄文化が花開く。美術や工芸の分野では特に京において貴族的で雅な作品が創造され、西陣では高級絹織物がもてはやされた。優美で高雅な作品とともに素朴な雅を追求する工芸作品も生み出される。一方、大坂では人間味あふれる面白い町衆文学が隆盛した。

 元禄文化がほぼ上方に限定された要因は何だろうか? この時期、江戸に幕府という政権はあれど、まだまだ京の帝・朝廷の威光は強かった。安土桃山時代には豪華な文化が隆盛した地域でもある。

 「政権は江戸にあろうが、町衆の力は上方にあり」という気概のようなものが、派手・華麗でありながら人間味があふれる元禄文化隆盛の背景にあったのではないだろうか。

元禄文化を代表する文化人

 元禄文化の華麗な部分を代表する作品を生み出した人物としてまず浮かぶのは、本阿弥光悦の遠い親戚でもある尾形光琳だ。燕子花(かきつばた)花図屏風や紅白梅屏風・八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしらでんすずりばこ)など、今見てもきらびやかで華麗な工芸作品を生み出している。

八橋蒔絵螺鈿硯箱(出典:ColBase)
八橋蒔絵螺鈿硯箱(出典:ColBase)

 ただ、寛永文化と異なるのは、豪華なだけでなく趣のある派手さや雅さを追求した点だ。光琳の弟・乾山は工芸の分野において雅な中にも趣のある作品を残している。

 華麗な工芸品や美術品を町衆が手にすることはできなかったが、その代わり彼らはそれを象徴する作品を楽しんだ。菱川師宣は、豪華な着物をまとった女性の姿を描いた。雅を身近で楽しむ浮世絵である。女性の髪形や着物の流行にも一役買っていたであろう浮世絵は、民衆が楽しめる新しい文化の誕生であった。

『見返り美人図』(菱川師宣筆、出典:ColBase)
『見返り美人図』(菱川師宣筆、出典:ColBase)

 とはいえ、浮世絵を手に出来るのは裕福な町人だけであり、一般町衆が浮世絵を楽しんだ化政文化とは異なる。井原西鶴の浮世草子(好色一代男・世間胸算用など)や近松門左衛門の浄瑠璃(曾根崎心中や国姓爺合戦など)、松尾芭蕉の俳諧・歌舞伎・浄瑠璃も一部町衆の娯楽として隆盛した。

 学問の分野では朱子学の林羅山・新井白石、陽明学の中江藤樹・熊沢蕃山のほか、古典研究を重視した山鹿素行や荻生徂徠らがいる。なおこの時期は、君臣上下の秩序を重視し、封建社会を維持する目的に最も適していた朱子学が重んじられていた。

江戸から全国に広がった庶民的な化政文化

 化政文化が隆盛した時代は第11代将軍・徳川家斉の約50年にわたる統治の時期前後である。寛政の改革がある程度成功し、飢饉もあまりなく平和な時代が続いていた。

化政文化の時代背景と特徴

 日本は全国的に貨幣経済が定着して城下町も発展、いわゆる穏やかな時代となっていた。平和が続けば文化も栄える。江戸では豪商や裕福な町人だけでなく、一般の町人たちにも文化発展の土壌が生まれつつあった。

 元禄文化の華麗さ・豪華さに比べ、化政文化は大衆文化として民衆に溶け込んだ。暮らしのうるおいであり、娯楽という要素がより強い文化だと考えられる。一方で民衆の権力への不満や批判を文化的に消化しているという点も化政文化の特徴だ。街道が整い人の流れも増えていった時期に発展した化政文化は、地方にも広がりを見せていく。

 また、この頃は外国が接近し始めたこともあり、学問の分野では蘭学に注目が集まった。海外の豊富な知識を学ぼうと多くの学者が洋学に目を向ける。その一方で水戸藩では『大日本史』の編纂事業が行われ、尊王攘夷論の礎となっている。藤田東湖や頼山陽は幕末の志士に多大な影響を与えた人物だ。

弘道館所蔵の大日本史(出典:wikipedia)
弘道館所蔵の大日本史(出典:wikipedia)

化政文化を代表する文化人

 化政文化では、一部の富裕層だけが楽しめる芸術・文化よりも一般大衆が広く楽しむことができる作品が目立つ。美術の分野では葛飾北斎の『富嶽三十六景』、安藤広重の『東海道五十三次』、鈴木春信の美人画、写楽の大首絵など、多彩な浮世絵が有名だ。多色刷りの木版画技術により、これらの浮世絵は普通の町人でも楽しめる娯楽となっていた。

『冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏』(葛飾北斎筆、出典:ColBase)
『冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏』(葛飾北斎筆、出典:ColBase)

 写実的な絵画や日本画も多く発表されている。渡辺崋山の文人画や松村月渓(呉春)の写生画のほか、円山応挙・伊藤若冲・池大雅・与謝蕪村などがそれである。海外の影響を受けた洋風画では、司馬江漢や亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)らがいる。

 印刷技術の発達は文学にも大きな影響を与えている。江戸の代表的な出版プロデューサー・蔦谷重三郎が活躍したのもこの時期と重なっている。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』、柳亭種彦の『偽紫田舎源氏』など、人情本や読本、合巻が多く出版された。鶴屋南北の『東海道四谷怪談』は歌舞伎の脚本として人気を博している。

十返舎一九の肖像(『肖像 2之巻』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
十返舎一九の肖像(『肖像 2之巻』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 歌舞伎のほうも中心は上方から江戸に移っていた。七代目市川團十郎や三代目尾上菊五郎、五代目松本幸四郎など名役者がそろっている。

 化政文化が地方まで広がると、人々が自分の住んでいる土地以外にも興味を持ちだしても不思議ではない。今でいう聖地巡礼のように旅に出る民衆が増えていったのである。それは四国八十八ヶ所・西国三十三ヶ所巡礼やお伊勢参り(御蔭参り)・善光寺参りとして今に残っている。

 こうして文化は、一部富裕層のものではなく民衆のものとして、定着していった。

あとがき

 学生の頃の私はそれほど芸術に興味がなかった。そのせいか、学校で元禄・化政文化を習っていた時は正直とても退屈だった。しかし、今回改めて調べてみると、時代背景とこんなにもリンクしていることにとても興味を持った。今更ではあるが、人の営み・文化は確かに時代を反映しているのだ。

 桃山文化の影響をまだ色濃く残し、幕府がその権威を確固たるものにしようとする、いわば意気揚々としていた元禄時代は、派手な・豪華な・生き生きとした文化が生まれた。上方は、その力を見せつけるだけの英気があった。

 時代が下り、幕府が長い泰平に緩みきった時期に生まれた化政文化は、経済・文化の中心地となった江戸に起こる。通や洒脱を好み、退廃的でありながら、反体制の思想を隠し持つ民衆の文化だ。この思想の中には少なからず反幕府の思いがあっただろう。それは静かにでも確実に人々の中に潜み続けていた。

 人を土地に縛ることで強固な力を保っていた幕藩体制は、化政文化の隆盛に伴った人の往来が増えたことで、その基盤に危うさが見えてくる。

 そして化政文化の時代が終焉を迎える。家斉が亡くなり、12代・13代と短い周期で将軍が交代する中で、幕府の弱体化は進んでいく。時代は幕末という激動の波に向かっていた。


【主な参考文献】
  • 『詳説日本史図録』(山川出版社、2021年)
  • 小和田哲男『日本の歴史がわかる本 幕末・維新~現代篇』(三笠書房、2004年)
  • 『日本大百科全書』ジャパンナレッジ

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。