【熊本県】熊本城の歴史 加藤清正が心血を注いで築いた名城
- 2024/10/11
今なお復旧作業が続く名城・熊本城の歴史を、加藤清正が築く以前の時代から西南戦争に至るまで、詳しくご紹介したいと思います。
中世に築かれた古城・隈本城
そもそも熊本の「くま」とは、動物の熊とは何の関係もなく、古代に米のことを「くま」と呼んだことから、米が良く取れる土地を指すのだそうです。つまり肥後(現在の熊本県)は、肥沃な土壌に恵まれた豊かな国として知られていたのでしょう。実際に奈良時代初めには、大宰府がある筑前(現在の福岡県北西部)より重要視され、九州随一の大国として知られていました。そして国府があった場所は熊本の南西部にあたり、古くから政治経済の中心地として栄えていたようです。
現在、熊本城が立つ丘陵を茶臼山といい、およそ9万年前に噴出した阿蘇火砕流によって形成された地形なのだそうです。ちなみに「熊本」と名付けられたのは、慶長12年(1607)以降のことで、それ以前は「隈本」と呼ばれていました。
さて、隈本に城らしいものが確認されるのは、南北朝時代にあたる永和3年(1377)のこと。肥前松浦の大嶋氏が肥後へ侵攻した際、その軍忠状の中に「隈本城」の記述が見えます。
さらに時代が下って応仁・文明年間(室町時代中期)になると、菊池氏の庶流にあたる出田秀信(いでた ひでのぶ)が茶臼山の東麓一帯に城を築き、「千葉城」と称したそうです。明応5年(1496)には、鹿子木親員(かのこぎ ちかかず)が隈本へ移って千葉城を本拠としました。しかし肥後の諸郡を領することから手狭となり、茶臼山の南西部に新城を築いて移っています。
ちなみに鹿子木氏の祖は、大友氏から分かれて肥後へ下り、名族菊池氏に仕えました。やがて菊池氏が衰えると大友氏の傘下に入りますが、内乱に乗じて菊池氏復興を謀るものの不成功に終わっています。さらに旧主・菊池義武が滅ぼされたことで、隈本城は大友家臣・城親冬(じょう ちかふゆ)に奪われてしまいました。
隈本城の変遷はまだまだ続きます。天正7年(1579)、島津氏が肥後へ侵攻してくると、城氏は大友氏を離れて島津氏に臣従しました。さらに豊臣秀吉の九州出兵に直面すると、今度は秀吉に降っています。
天正15年(1587)、九州一円を平定した秀吉は、佐々成政に肥後を与えるとともに、52人に及ぶ国衆の領地を安堵しました。この時、成政は隈本城へ入り、城主だった城久基は大坂へ移り住んでいます。
肥後に新体制を築こうとした佐々成政ですが、検地を強引に進めたことで国衆らの反感を買い、大規模な一揆を招きました。程なくして一揆は鎮圧されるものの、責任を問われた成政は切腹となり、国衆のほとんども戦死、もしくは処刑となりました。
その後、肥後の支配を任せられたのが加藤清正と小西行長です。清正は隈本城へ入り、行長は宇土城へ入城。それぞれ半国ずつを所領としています。
加藤清正によって熊本城が築かれる
天正16年(1588)、清正は肥後北部25万石を与えられ、隈本の古城に入りました。天正18年(1590)頃から城の改修が始められ、石垣を構築したり、天守や御殿・櫓などが建てられたといいます。また一説には、清正が本格的な大改修に取り掛かるのは慶長6年(1601)頃とされていて、ちょうど清正が52万石の太守となった時期に符合します。
戦前、熊本城址保存会が刊行した『熊本城史梗概』の記述を引用してみましょう。
「慶長六年正月、清正年頭の祝儀領地加増の礼として東上し、併せて茶臼山築城の許可を受く。同年八月七日鍬始、同八年朔日斧始、同十二年新城成り、隈本を熊本に改称す」
ただし慶長6年の時点で、すでに熊本城は近世城郭としての体裁を整えていたと考えられます。天守台から「慶長四年八月吉日」と銘のある瓦が出土したことで、清正が肥後入国後、程なくして改修に取り組んだことがうかがえるのです。
ちなみに清正は、まったく新しい城を築くつもりで、領内のあちこちを検分していました。そこで隈本の南にある杉島に白羽の矢を立てるのですが、隣の小西領に近く、洪水の心配があることで沙汰止みになっています。結局、清正が選んだのは、隈本古城を造り替えることでした。
まず城の図面については、重臣が長い時間を掛けて検討し、縄張りは清正自らが担当しています。また石材は肥後各地から集められ、木材もまた領内から桜・楠・松・欅などが手当たり次第に集積されました。
普請が始まると、清正は日に二度は現場を見回って督励し、念入りに指示を下したようです。石垣を積む際には、清正自身も手伝うことがあったとか。また、石垣の積み立てには清正独自の工夫があったらしく、外から見えないよう幕を引きまわして作業にあたったといいます。
清正が築いた熊本城は、茶臼山全体を取り込む巨大なものとなり、おおむね慶長5年(1600)頃に完成しました。それに先立ち、清正は慶長の役から帰国するにあたって、このような方針を打ち出しています。
「数年百姓等苦役彼是相懸け辛労之条、帰朝之上を以て年貢等之外、人夫諸役二三年可令免許之条悦之可相待事」
つまり、築城工事では、多くの領民たちに苦労を掛けたから、今後2~3年は年貢を免除しようという意味です。熊本城築城とは、領民を巻き込んだ巨大プロジェクトだったのでしょう。
最強の城とされる熊本城の構造とは?
歴史・城郭ファンの間で、熊本城は「最強の城」と呼ばれることが多いですよね。「扇の勾配」と謳われる雄大な石垣、そして巧妙な防御の仕掛けが随所に見られるなど、政庁であると同時に鉄壁の軍事要塞でもありました。なぜ清正は、過剰なまでに強い城を完成させたのでしょうか。その理由は熊本城が築かれた時期にあります。
ちょうど豊臣から徳川へ政権が移る過渡期にあたり、激動の時代が作り出した不安感から来るものでしょう。もし天下動乱となれば、頼りになるのは自分の城だけです。最後の最後まで戦うことを主眼とし、複雑な縄張りを持つ城を築くことは自然だったのかも知れません。
同時期に完成した城郭を見ても、同様のことが言えます。姫路城・今治城・伊予松山城など、いずれも地形を巧みに利用しつつ、防御に重点を置いた城でした。清正は軍事的な不安を払拭するため、あえて過剰な防御力を持つ熊本城を完成させたと推察できます。
次に熊本城の構造を見ていきましょう。
まず茶臼山の山頂北寄りに本丸を置き、南に月見台、すぐ西には平左衛門丸を配置しています。それらの外側には東竹の丸、竹の丸、飯田丸、数寄屋丸などが張り出しており、さらに西へ向かって西出丸や二の丸が続いていきます。
いわば梯郭式の縄張りを持ちますが、石垣の壮大さと合わせて、堀の壮大さも見逃せません。2本の屈曲した堀によって曲輪群が独立しており、侵入した敵を双方向から攻撃することが可能となっています。また丘陵北側に施された巨大な掘割によって、北からやってくる敵を完全に遮断することができました。
さらに東側には、外堀の代わりとなる坪井川が流れており、そこから見上げるように断崖が連なっています。清正は自然地形を巧みに用いながら、弱点となるべき箇所に大きく手を加え、まさに鉄壁の要塞を造り上げました。
次に熊本城の石垣ですが、大きく分けて7期に分けられるそうです。もっとも古い石垣は、かつての古城付近で見られ、清正が入城した直後のもの。次いで2期目は、本丸付近にある新城のものです。
やがて時代が経つごとに石垣の積み方も変化していき、隅角部が算木積になったり、石垣の目地が横へ通るようになります。
ちなみに6期目が細川氏によるもので、7期目が陸軍によって積まれた近代の石垣です。そんな石垣の変遷を見ていくのも楽しみの一つかも知れません
武骨なスタイルが特徴的な天守と櫓
次に熊本城のシンボルといえる天守を見ていきましょう。創建当時は小さな付櫓を持つ複合天守だったのですが、あとから小天守が増築されています。大天守は三重六層、地下一階で、入母屋破風を持つ建物を二つ重ね、その上に望楼と載せた武骨なスタイルです。特徴的なのが初層の形で、石垣の縁からぐっと外側へはみ出しています。
ちなみに天守台の石垣ですが、途中までは緩やかで、そこから上は急激に反りを持ち、ほぼ垂直に立ち上がる構造となっていました。
これは敵兵を寄せ付けないと同時に、初層の張り出した部分に石落としを備えるスペースになっていたようです。また鉄砲で敵を狙う狭間の役割も果たしていました。ひたすら防備に重点を置いた、清正らしい守りの仕掛けだといえるでしょう。
熊本城には小天守のほか、「三の天守」と呼ばれる宇土櫓もあります。こちらは三重五層、地下一層の櫓になっていて、南に長い続櫓を設けていました。直線的な破風を備えた威容は、まさに武骨というべきもので、かつては同じような櫓が、城内に林立していたのでしょう。
清正の死後、嫡子・忠広が遺領を継ぎますが、寛永9年(1632)に改易処分となりました。代わって藩主となったのが、豊前小倉から移ってきた細川忠利です。その後、熊本城は幾度かの火災や天災に遭うものの、幕末に至るまで細川氏が藩主を務め続けました。
天守炎上と西南戦争
熊本城は日本の歴史上、最後となる籠城戦の舞台となりました。それが明治10年(1877)に起こった西南戦争です。鹿児島へ戻っていた西郷隆盛は、新政府に不満を抱く不平士族たちとともに決起。2月15日、1万6千の薩軍が熊本城を目指しました。
いっぽう熊本城には陸軍熊本鎮台が設置されており、司令官・谷干城以下、3千人余りの兵士が駐留しています。そこで選択されたのが、政府軍主力が来援するまで持ちこたえようという籠城作戦でした。小銃や野砲、弾薬のほか糧食などを集積し、とりあえず一ヶ月は支えられる態勢を整えています。
そのような状況下にあった2月19日、熊本城内で突然火の手が上がりました。そして天守をはじめ、多くの建物に燃え移り、城内は焦土と化してしまいます。
「炎々と燃える天守閣!まるで一つの火の塊となって昇天するかのようである」
上記は、のちにシベリアや満州で諜報活動に従事した石光真清が、このときに記したものです。熊本藩の歴史を象徴する城が燃えていく様子に、父とともに泣き崩れたそうです。
なお、天守炎上の原因は、放火という説が有力です。岩倉具視が三条実美に充てた手紙にも次のようにあります。
「熊本鎮台の出火は屯営の都合により、不要建物取り払いのためである。だから気遣いなきよう」
邪魔だから燃やしたと見るべきでしょう。ただし、政府軍の本営は火災の事実を知らず、城内の糧食も焼けたといいますから、失火という可能性も否定できません。
2月21日、いよいよ薩軍が城下へ侵入し、鎮台兵がこれを迎撃。ここに熊本城攻防戦の幕が切って落とされました。そして翌日の黎明、薩軍は2方向に分かれて進撃を開始。城の東西から猛攻を仕掛けます。薩軍の三番隊・四番隊は、正面にあたる坪井川河畔から射撃を浴びせ、いっぽう鎮台側は古城や飯田丸などから応戦しました。また背面でも一・六・七番隊が城を襲撃し、激戦が展開されています。
双方の攻防戦が続くものの、やはり熊本城は堅固な要塞でした。薩軍は険しい断崖や坂を越えることができず、いたずらに損害を重ねていくばかり。医師として従軍していた児玉実義の日記には、
「二十二日晴天…戦死十余人、手負四、五十名」
と記されており、熊本城を攻略するどころか、城内へ入ることすらできません。
3月に入っても激戦は続き、13日の段山をめぐる戦いでは、薩軍で100人、鎮台側で200人の死傷者を数えたといいます。すでに籠城する鎮台側は苦境に陥っていました。なぜなら長期にわたる籠城で糧食が尽きかけており、自滅する可能性があったからです。
しかし政府軍主力の進出に伴って戦線が北部へ移ると、熊本城を包囲する薩軍は手薄となりました。やがて政府軍別動隊が来援し、鎮台兵が包囲を突破して連絡の回復に成功。熊本鎮台は最後まで城を守り抜いたのです。籠城開始から2ヶ月、この間の死傷者は773人に及んでいました。
おわりに
加藤清正が心血を注いで築いた熊本城。それは彼が培ってきた技術を駆使する最新鋭の城郭だったのですが、江戸時代を通じて戦場になることはありませんでした。しかし熊本城の真価が発揮されたのは、皮肉にも明治になってからです。戦国時代とは比較にならない近代装備の薩軍に対し、熊本城の堅固な守りはすべての攻撃を跳ね除け、一歩も城内へ侵入させることなく撃退しました。
幕末維新期に日本の城が時代遅れになっていく中、まさに熊本城だけが別格だったのでしょう。
補足:熊本城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
応仁・文明年間 | 出田秀信が、茶臼山東麓に千葉城を築く。 |
明応5年 (1496) | 鹿子木親員が、茶臼山南西に新城を築く。(隈本城) |
天文23年 (1554) | 城親冬によって隈本城が奪われる。 |
天正15年 (1587) | 佐々成政が肥後国主となり、熊本城へ入る。 |
天正16年 (1588) | 肥後国一揆が勃発。成政が改易となり、加藤清正が隈本城主となる。 |
天正18年 (1590) | 清正、隈本城の大改修に取り掛かる。 |
慶長5年頃 (1600) | 天守が築かれる。 |
慶長12年 (1607) | 近世城郭として完成し、城名・地名を「熊本」へ改称。 |
寛永9年 (1632) | 加藤忠広が改易となり、新たに細川忠利が熊本藩主となる。 |
享保元年 (1716) | 古城より出火し、大火となる。 |
宝暦4年 (1754) | 二の丸に藩校・時習館が開設される。 |
明治4年 (1871) | 城内に熊本鎮台が設置される。 |
明治10年 (1877) | 西南戦争により、大天守・小天守・御殿・櫓などが焼失。 |
昭和25年 (1950) | 12の国宝建造物が重要文化財に改称される。 |
昭和30年 (1955) | 熊本城が特別史跡に指定される。 |
昭和35年 (1960) | 大天守・小天守が外観復元される。 |
平成28年 (2016) | 熊本地震で被災。大きな被害を受ける。 |
令和3年 (2021) | 熊本城天守閣の復旧が完了。 |
【主な参考文献】
- 岡寺良『九州の名城を歩く 熊本・大分編』(吉川弘文館 2023年)
- 熊本城400年と熊本ルネッサンス県民運動本部『肥後学講座Ⅱ』(2008年)
- 小川原正道『西南戦争』(中央公論新社 2007年)
- 加藤理文『熊本城を極める』(サンライズ出版 2011年)
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