【兵庫県】篠山城の歴史 要衝に築かれた天下普請の城
- 2024/07/22
今回ご紹介する篠山城(ささやまじょう)は、篠山盆地のほぼ中心にあり、春は桜、初夏の新緑、秋は紅葉、冬は雪景色と、四季折々の風情が楽しめる城です。そして平成12年(2000)に復元された大書院は、一大名の書院としては破格の規模を誇り、威風堂々の佇まいを見せています。
諸大名による天下普請で築かれた篠山城ですが、なぜこの地に築城されたのか?その理由とともに、この城がたどった歴史をひも解いていきましょう。
新城を築くにあたり、なぜ篠山が選ばれたのか?
篠山の地は、古代には山陰道、中世には京街道が通じており、古くから交通の要衝として認識されていました。また、京都から見て西国・山陰を結ぶ戦略的要地にあることから、中世には波多野氏によって八上城が築かれるなど、地域の防衛・統治の中心地となっています。さて、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、自らの政権確立のために様々な手を打ちました。その目玉となったのが諸大名の整理淘汰です。
西軍大名を取り潰し、巧妙に一門・譜代を配するいっぽう、外様大名を遠ざける措置を行うことで、政権基盤を固めようとしました。とはいえ、大坂城には豊臣秀頼が健在であり、西国を中心に豊臣恩顧の大名がひしめいています。そこで家康は、豊臣サイドを牽制する意味で、大坂城包囲作戦に打って出ました。やがて伊賀上野・彦根・膳所・伏見・姫路といった城が築かれ、豊臣家に対する防衛・監視・牽制の役目を担っています。
もちろん交通の要衝である篠山盆地も注目されました。もともと外様大名・前田茂勝が領していたのですが、慶長13年(1608)に「狂気のため、藩政治まらず」という理由で改易され、そこへ家康の落胤と言われている松平康重が送り込まれたのです。
常陸笠間から移った康重は当初、八上城を修築したうえで本拠に定めようとしますが、近世の城には適さないとして工事を中止。盆地の中心へ居城を移すことを決心しました。
康重はまず、盆地にある笹山・王地山・飛ノ山の三つの小山を選び、築城の候補地としています。そして張り子で地形の高低を示した模型を作らせると、家臣の石川信昌に命じて、家康の元へ届けさせました。つまり家康の裁定を仰ごうとしたわけです。
折しも家康は、九男の義利(のちの義直)を連れて、尾張清州に滞在していました。説明を受けると機嫌よく、「笹山にせよ」と即決したそうです。おそらく笹山の立地条件が、陰陽・風水の規則に適っていたからでしょう。また、篠山城の大手を北に配置し、東向きに城下町を厚くしていることから、東方面の防御を強く意識していたのかも知れません。
ちなみに篠山城が築かれるまでは笹山と呼ばれており、そこには古い砦がありました。そして新城の完成に伴って篠山に改名されたといいます。
困難を極めた築城工事
慶長14年(1609)、家康から篠山城築城の命令が下りました。そして大岡忠七郎が上使として派遣され、八上城にいる康重に伝達されます。それに伴い、西国の諸大名が天下普請のために駆り出され、福知山の有馬豊氏、宮津の京極高知、広島の福島正則、津山の森忠政など、実に20家に及ぶ大名が加わりました。また、普請総奉行には池田輝政が、縄張奉行には藤堂高虎が就き、いずれも城造りの名人が築城に携わっています。集められた人夫は8万人に及び、篠山盆地一帯は異様な熱気に包まれました。
この時点まで、笹山には旧城主である笹山玉泉・玄朝親子が居住していたのですが、築城に伴って、現在の呉服町付近へ移住しています。
さて、工事は3月9日の鍬初めをもって開始されますが、いっこうに普請が捗りません。なぜなら笹山は巨大な岩盤でできているため、人力による作業では歯が立たないからです。
寛永年間に編纂された『見聞集』はこのように記しています。
「本城一枚岩にて夜な夜なは薪を積みかけ焼申候、昼はかなつきつるのはしにて地形引さけ申候」
つまり、昼はつるはしで山を切り崩し、夜は薪を燃やしながら岩を削る作業が、延々と繰り返されたのでしょう。さすがに5月中旬になると、工事の進捗状況が半分にも満たないことから、藤堂高虎が現地へ派遣されて監督にあたったといいます。
その甲斐あって7月9日に根石初めが行われ、9月中旬には石垣工事を含む普請がおおむね完了し、ようやく高虎は引き上げました。続いて櫓や門を建築する作事が始まり、年末には大部分が完成しています。そして年内のうちに康重が移ったことで、ここに篠山城は完成をみたのです。
ちなみに築城については、次のような説もあるとか。
そもそも築城に際し、現在の城郭より小さめに築くはずが、あまりに岩盤が堅いことから普請が進捗せず、やむなく計画を変更して工事面積を広げた、というものです。
つまり、笹山の岩盤には手を付けずに土や石で埋め尽くし、柔らかい地盤がある位置で、堀を掘削したことになるでしょうか。難工事が一気に進捗した理由として、全権を委任された高虎が拡張計画を承認したと考えれば、かなり辻褄は合ってくるのです。
強固な守りを持つ篠山城の構造
ここからは篠山城の構造について見ていきましょう。まず比高15メートルの小山を利用した平山城であり、全体的な縄張りは、一辺がおよそ400メートルの方形となっています。
内堀の中には本丸・天守台・二の丸が置かれ、これらが直列に並ぶ梯郭式を成しているのが特徴です。さらに外側をぐるりと三の丸が囲む輪郭式となっており、単純なように見えて、実は複雑な縄張りとなっています。
三の丸には大手・東・南と3つの門があり、それぞれには角馬出が付随していました。
馬出というのは、城側にとって出撃拠点となるべきもので、敵が攻めてきた時に門を守りつつ、隙を見て攻撃を仕掛けるための突出口となります。つまり攻撃と防御を併せ持つ先進的な軍事施設だと言えるでしょう。
また、三の丸は広大な堀と土塁で囲まれ、主に家老や重臣クラスの屋敷があったようです。さらに土塁上には屏風折れの土塀があって、横矢を仕掛けることが可能となっていました。
いっぽう内堀の内側は城郭中枢部を成し、鬼門にあたる東北面は、堀と石垣が屈曲して複雑な構造になっています。特に石垣は壮大なもので、打込接(うちこみはぎ)と野面積みを混用しつつ石を積み、10~17メートルの高さを誇ります。
石材は主に、篠山周辺の山々から切り出しており、穴太衆の指導のもと、諸大名が連れてきた専門技術者が参集し、驚くほどの短期間で巨大な石垣が完成しました。
また、それぞれの石には様々な刻印が施され、種類だけで200種以上、その数は2千を数えるといいます。これは大坂城、名古屋城に次ぐもので、いかに多くの人々が築城に携わったかが、よくわかるところです。
そして二の丸の表門は、廊下橋を伴う櫓門になっており、その内側は二重の枡形構造になっていました。また裏門は埋門(うずめもん)形式を取り、長方形の外枡形となっています。二の丸には藩主の御殿や大書院が置かれ、藩の政務機構が集約されていました。
次に本丸ですが、最も目立つのが天守台でしょう。当初は五層の天守を築造するため、建材まで準備されていたものの、幕府執政・本多正信の意見によって中止になったようです。往時には、単層の隅櫓と塀が設置されるのみでした。
また篠山城の内堀には犬走りという空き地があり、これが実に不可解な存在となっています。犬走りとは、石垣の外側に作られた通路のような平地のことで、城郭では石垣を補強する目的で施されていました。
例えば軟弱地盤ですと、そのままで石垣を築くと崩れやすいのですが、犬走りを設けることによって、構造的に石垣を支え、補修用の足場としても利用できるのです。
こうした犬走りの遺構は今治城や岸和田城などで見られ、いずれも軟弱地盤の上に城が建っています。しかし篠山城の場合、硬い岩盤の上にあるため、わざわざ犬走りを設ける必要がありません。しかも他の城に比べて極端に広いのです。
実は有力な説があり、内堀の掘削と石垣工事が同時進行で行われた時、資材置き場として犬走りを設けたというもの。いかにも突貫工事で完成した篠山城らしい理由ですね。
松平一門・譜代大名が260年も統治した篠山藩
篠山城の完成とともに、城下町も整備されていきます。三の丸を囲む堀の外側に、侍屋敷や町屋が置かれますが、まず人が集まらなければ何も始まりません。『篠山城下町屋由来』はこう記しています。「慶長十五年正月十五日ヨリ八上町家ヲ笹山町江移ス、此年中ニ家建、同十七年河原町ニ小家少々建」
八上城の旧城下町から人々を移転させ、寺院や商家などを城下へ移すことで、篠山は徐々に発展していきました。ただし城下町が完成するのは、実に100年後のことです。
さて初代藩主・松平康重は大坂の陣(1614~15)で武功を上げ、和泉・岸和田へ移封となりました。代わって松平信吉・忠国父子が上野・高崎から移り、城下町の整備や文化振興に尽くしたといいます。これらの功績もあって播磨・明石へ移封になると、次には摂津・高槻から松平康信が篠山藩主となりました。そこから5代続くのですが、目立った功績もなく丹波・亀山へ移封となっています。
ここまでは松平一門による統治が続いていたのですが、それ以降は譜代大名である青山氏が歴代藩主となりました。寛延元年(1748)に青山忠朝が、松平信岑と入れ違いで篠山へ入り、そこから幕末まで6代続きます。
青山氏時代は、藩校・振徳堂を創設して藩主の教育・育成にあたったり、あるいは大坂城代から老中にまで上り詰めた藩主が二人もいて、幕府中枢の中で活躍しました。
そして篠山城は、その固い防御力を発揮しないまま明治維新を迎え、慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは、篠山藩兵600人が出動するも、旧幕府軍の敗戦を知ると、すぐさま引き返しました。つまり、平和な城のままで使命を終えたのです。
明治6年(1873)の廃城後、二の丸土塁や石垣が取り壊され、多くの櫓や門が取り壊されました。ただ大書院だけは解体に費用が掛かるとして見送られ、学校や公民館として利用されています。しかし昭和19年(1944)の失火によって大書院が焼失し、すべての建造物は失われてしまいました。
それから56年を経た平成12年(2000)、市民の願いと厚い寄付によって、大書院の復元・再建が成り、かつての姿を取り戻しています。篠山城は今や丹波篠山のシンボルとして、また観光の中心地として、多くの人々から親しまれているのです。
おわりに
天下普請によって築かれた篠山城には、ぜひ見て頂きたいスポットが3つあります。まずは復元された大書院。残された絵図や古写真、発掘調査などによって忠実に再現され、その大きさは二条城二の丸御殿に匹敵するほど。一大名の書院とはとても思えない豪壮さが魅力です。
次いで篠山城に築かれた3つの角馬出も見て頂きたいところ。特に東馬出・南馬出は、当時の姿をそのまま留めており、石垣造りと土造りの違いがよくわかります。
そして篠山城に散在する刻印石の数々も魅力的です。当時の人々は、石の取り合いで争いが起こらぬよう刻印を施し、また自分の仕事の進捗状況を、刻印石によって確認していたのでしょう。
刻印はまるで象形文字のように感じますが、それぞれに意味があったに違いありません。
補足:篠山城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
篠山城築城以前 | 笹山利佐衛門によって笹山に砦が築かれる。 |
慶長13年 (1608) | 常陸笠間より松平康重が八上城へ移封となる。 |
慶長14年 (1609) | 篠山城の築城を開始。同年末に完成、松平康重が入城。 |
慶長15年 (1610) | 城下町の整備が始まる。 |
元和5年 (1619) | 松平康重が岸和田へ移り、代わって松平(藤井)信吉が入る。 |
慶安2年 (1649) | 松平忠国が明石へ移り、代わって松平(形原)康信が入る。 |
寛延元年 (1748) | 松平信岑が丹波亀山へ封じられ、代わって青山忠朝が入る。以後、幕末まで続く。 |
明治6年 (1873) | 廃城となり、城内の建物・石垣・土塁が壊される。 |
昭和19年 (1944) | 二の丸大書院が失火により焼失する。 |
昭和25年 (1950) | 多紀文化顕彰会が発足し、篠山城跡を史跡として保存するための調査・研究が行われる。 |
昭和31年 (1956) | 篠山城跡が国指定の史跡となる。 |
昭和42年 (1967) | 石垣の修理工事に着手 |
平成12年 (2000) | 二の丸大書院の復元・再建が成る。 |
平成14年 (2002) | 二の丸御殿跡庭園が竣工。 |
平成18年 (2006) | 日本100名城に選定される。 |
【主な参考文献】
- 橘川真一・角田誠「ひょうごの城」(神戸新聞総合出版センター 2011年)
- 藤崎定久「日本の古城1 中部・近畿編」(新人物往来社 1970年)
- 宇杉幸知「丹波篠山城」(篠山史友会 1984年)
- 篠山市教育委員会「史跡篠山城跡整備基本計画」(2019年)
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