坂本龍馬の最期と死因 意外な人物も関与?坂本龍馬暗殺事件(近江屋事件)の犯人像とは
- 2024/05/02
坂本龍馬暗殺事件、いわゆる近江屋事件は謎が多く、未だ確たる説が挙がっていない。そんなこともあり、日本史三大ミステリーの1つに数えられている。
今回は、最有力とされる説を含め、できるだけ多くの説を挙げたつもりである。さらに、史料を読む中で疑問に思った点から新たな考察を試みた。もちろんエッセイだと思って読んで頂きたい。
今回は、最有力とされる説を含め、できるだけ多くの説を挙げたつもりである。さらに、史料を読む中で疑問に思った点から新たな考察を試みた。もちろんエッセイだと思って読んで頂きたい。
大政奉還
慶応3(1867)年10月14日、15代将軍徳川慶喜は二条城において、政権返上を明治天皇に上奏し、翌日勅許を得た。いわゆる大政奉還である。確かに、龍馬は大政奉還に一枚も二枚も噛んでいるが、それと龍馬暗殺との間にそんなに深い関係があるのかという方もいよう。しかし、大政奉還が薩長土肥の微妙な思惑の上で成立したということを考えると、龍馬暗殺を云々する前振りとして、どうしても触れておきたかったのである。
そもそもは、幕末の混乱に対処するべく、公武合体論が唱えられたことに端を発する。公武合体論とは朝廷の権威と幕府・諸藩の連携により幕府体制を立て直そうというものだ。これには越前の松平春嶽をはじめとして、薩摩の島津斉彬・久光も賛同しており、薩摩が当初は倒幕派でなかったことがわかるだろう。
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島津久光などは、急進的な尊王攘夷派をかなり警戒しており、その背後にいた長州藩の勢力を駆逐するために会津藩と組んで、文久3(1863)年に八月十八日の政変を成功させている。無論この成功は、孝明天皇の後ろ盾あってのものであった。
その後、朝命により幕府老中、将軍後見職にあった一橋慶喜、会津藩主にして京都守護職の松平容保らに加え、島津久光ら幕末の四賢侯(しけんこう)が参加する参預会議が成立した。
薩摩が描く公武合体策が実現したかにみえた参預会議であったが、横浜鎖港問題で久光と慶喜が対立する。特に、文久4(1864)年2月15日の会議で両者は激しく対立し、早くも会議は煮詰まり始めた。実は、久光も慶喜も横浜鎖港には反対の立場であったのだが、薩摩の台頭を危惧した慶喜が賛成派に転じたことで生じた対立だったのである。
さらに、翌2月16日にもうけられた酒席において慶喜が暴言を吐いたこともあり、参預会議体制は結局、ほどなくして瓦解する。それと同時に、薩摩主導の幕府改革路線を推進しようという久光の目論みも頓挫することになった。
しかし、薩摩は公武合体推進を諦めてはいなかった。ただし、雄藩連合による幕政への関与を模索する方向にシフトしていったという変化はあったと思われる。
慶応2(1866)年の末に、徳川慶喜は15代将軍に就任した。慶喜は兵庫開港の勅許を得るべく朝廷工作を図ったが、薩摩は禁門の変によって朝敵となってしまった長州藩の寛大なる処分を優先的に協議したかったようだ。
これには、同年初頭に長州藩との同盟、いわゆる「薩長同盟」を既に結んでいた薩摩藩の思惑があったと思われる。そこで、薩摩藩は、将軍慶喜に島津久光、山内容堂、伊達宗城、松平春嶽ら幕末の四賢侯を加えた会議の開催を目論む。
この会議は慶応3(1867)年5月に開催された。いわゆる四侯会議であるが、この会議も慶喜に主導権を握られ、久光の望む展開とはならなかった。この後、薩摩藩は武力討幕に舵を切ることとなる。
この頃、土佐藩では、武力討幕にこだわる乾(板垣)退助と大政奉還を説く後藤象二郎の2派に分かれていたようだ。意外なことだが、龍馬は武力討幕には反対ではなかったという説もある。大政奉還に関しても武力衝突を避けるために推進したという印象が強いが、どうもそこまでの平和主義者ではなかったらしい。というのも、中岡慎太郎に宛てた手紙で以下のようなことを述べているからだ。
龍馬:「大政奉還により幕府の朝廷における力を削ぎ、おそらく幕府方が戦端を開くだろうから、それまでの間にこちらは兵力を整えればよい」
ただ、土佐藩自体は大政奉還後も、公議政体構想の実現のため努力を続けていたという。龍馬を越前に派遣したのもその活動の一環であったと思われる。ここから、龍馬が大政奉還後に諸侯による会議で、国家を運営することに肯定的であったことがわかる。ただ、土佐藩は徳川家を盟主とする諸侯会議を構想していたようだ。それは、佐幕派で大政奉還に反対していた会津藩に、大政奉還は形式的なものだと説明していることからも推察できよう。
幕府方は龍馬も同様の構想を抱いているというイメージでいたのではないだろうか。この点が、龍馬暗殺の伏線になっていると私は考えているが、これについては後述する。
龍馬、死す
慶応3年(1867)11月15日夜、龍馬と中岡慎太郎は近江屋の二階にいた。しばらくして峯吉が、そしてややあって岡本健三郎がやってきた。雑談の後、峯吉と健三郎は軍鶏を買いに出掛けたという。その後、さらに来客があった。従者の藤吉が応対すると、客は十津川郷士を名乗り、龍馬への面会を求めた。
藤吉:「ぎゃあ!」
藤吉は、客の名刺を持って戻るところを斬られ、叫んで転倒した。
龍馬:「ほたえな(騒ぐな)」
龍馬は藤吉が騒いでいると思ったらしい。刺客はそのまま龍馬のいる八畳間に向かった。刺客は2人だったようだ。八畳間に乱入すると、1人は龍馬の額を横に払い、もう1人が中岡の後頭部を斬りつけた。床の間の刀を取ろうとした龍馬は背後を袈裟に斬りつけられつつも、刺客と対峙。鞘のままの刀で攻撃を受け止めたが、刀は鞘を削り、その勢いでもって龍馬の額を深く横に払った。この傷で、龍馬は昏倒したという。
一方、中岡は鞘のままの短刀で防戦するも、手足を斬られ昏倒する。龍馬は一時意識を取り戻すが、
龍馬:「慎太、僕は脳をやられている。もう、駄目だ」
と言い残して絶命した。死因は明らかに脳の損傷であろう。
中岡は意識はしっかりしており、一時期かなりの回復を見せたが、後頭部の深い傷が致命傷となり、11月17日に亡くなった。
実行犯、そして黒幕は?
これには諸説ある。新選組説
新選組説は、事件直後から唱えられてきた説である。そもそも、襲撃を受けた中岡慎太郎自身が、「之はとうしても人を散々斬つて居る新選組の者だろう」と述べているからだ。
そしてもう1つ、事件現場には遺留品として刀の鞘が一本落ちていたという。
土佐藩は新選組の犯行と判断し、勤王倒幕で新選組と袂をわかった御陵衛士の面々に鞘を見せたが、判然としないながらも幹部の原田左之助のものではないかと証言した。しかし事件当日、新選組は会合を開いており、犯行は困難であったろう。しかも、原田左之助は場数を踏んだ剛の者であり、鞘を現場に残すとは考えにくい。
当時は新選組隊士・大石鍬次郎(おおいし くわじろう)が犯人として捕縛され、拷問に耐えかねて一度は犯行を自供するという出来事も起こっている。ところが、後に鍬次郎はこれを撤回し、「近藤勇が酒席で今井が龍馬を討ったと語っていた」と証言。現在では、新選組説は支持を失いつつある。
京都見廻組説
近年、有力視されているのが京都見廻組説である。実行犯として見廻組の名が挙げられるきっかけとなったのは、前出の大石 鍬次郎の一件である。彼の証言を受けて、明治3(1870)年2月、元見廻組隊士・今井信郎が取り調べを受けた。何と、そこで今井は龍馬暗殺の詳細を述べたというのだ。簡潔に言うと、見廻組与力頭の佐々木只三郎らと、あくまで公務として襲撃したが、自分は見張り役であり、手は下していないという内容であった。結局、今井は禁固刑の判決を受けるが、後に特赦を受け釈放されている。ところが、龍馬暗殺の時効が成立していた明治33(1900)年、結城禮一郎の取材に応じ、自分が龍馬を斬ったと告白したのだ。さらに、今井の記事を読んだ、元見廻組の渡辺篤が口を開く。
渡辺篤は、今井が「渡辺吉太郎が鞘を残した」と証言したのを子孫が誤って自分の不始末だと誤解されるのは心外であるとし、「剣術の修行が浅い世良敏郎が現場に鞘を残した」と明かしたのである。
今井信郎と渡辺篤の証言は多少の食い違いはあるものの、実行犯でなければ知り得ないものも含まれており、現在のところ有力な説とされている。
私はさらに、今井の妻・いわの証言に注目している。
いわによると、慶応3(1867)年11月15日の朝、見廻組の仲間である渡辺吉太郎が来て、しばらく何か話していたが、朱鞘の長刀をさすと、「ちょっと行って来るよ」といい、出かけたまま数日間戻らなかったという。
この日の晩に龍馬が暗殺されたことを考えると、今井は限りなくクロに近いのではと私は考えている。
さて、見廻組犯行説が濃厚になってきたが、黒幕は誰だろうか。今井は京都守護職・松平容保であると妻・いわに語っている。このほか、京都所司代・松平定敬(さだあき)だという説も存在し、定まっていない。ところで、龍馬の隠れ家は何故発覚したのだろうか。実は、龍馬は近江屋の土蔵に潜伏していたのだという。
この土蔵は誓願寺への逃亡が容易だったと言われる。ところが、11月12日頃から風邪を引き、11月14日には近江屋の二階に移ったというのだ。この翌日に暗殺されていることを考えると、実に興味深い。私は、幕府若年寄格の永井玄蕃頭尚志(ながいげんばのかみなおゆき)がキーマンだと考えている。
永井の屋敷は見廻組向かいにあったとされ、勝海舟を介して旧知の仲であった龍馬は度々この屋敷を訪れている。暗殺される直前の11月12日と11月14日にも訪れて、会談しているのである。この時期、龍馬は大政奉還後の政権構想について話していたものと思われる。おそらくであるが、永井は龍馬が土佐藩と同様に徳川家を盟主とする公議政体論を支持しているものと思っていたのではないだろうか。
ところが、暗殺直前の龍馬は新政府綱領八策を見ればわかるように、「○○○自ラ盟主ト為リ」という考えに変わっていることを知った永井は困ったのではないか。永井は三河松平の出で、養子として永井家に入っている。幕臣としての立場、そして松平一門としての立場からすると龍馬の考えは少々厄介だった可能性は否定できない。ひょっとすると、11月14日の会談の直前に見廻組の誰かに、今日龍馬が来ると明かしてしまったということはないだろうか。
当然、永井邸を出た龍馬は見廻組に尾行されただろう。普段は玄関から入るのを避けていた龍馬が、風邪を引いて二階に居住していたため、玄関から入ってしまったということはないだろうか。となると、見廻組は容易に龍馬の居所を突き止められたことになる。
薩摩藩刺客説
これは、薩摩藩士・中村半次郎らが龍馬を斬ったとする説であるが、半次郎は中岡と龍馬と顔見知りであり、中岡は犯人の顔に見覚えがないと語っていることから無理があろう。土佐藩討幕派説
鳥取藩の『慶応丁卯筆記』に記されているもので、土佐藩士宮川助五郎が犯人とする説である。宮川も中岡・龍馬両名と顔見知りであり、しかも、中岡は宮川と同じ討幕派で、龍馬も武力討幕を否定していないことから考えても、この線は薄いだろう。
中岡慎太郎説
近江屋で龍馬と論争の末に斬り合ったという説であるが、現場に第三者の刀の鞘が残されていること、そもそも両名の刀に抜いた形跡がないことから奇説の類いと考えてよいのではないか。中岡暗殺巻き添え説
そもそも、犯人は中岡を狙っていて龍馬は巻き添えを食ったという説であるが、襲撃されたのが龍馬の居所である近江屋であることから、これも合理性に欠けるだろう。御陵衛士(ごりょうえじ)説
前述した通り、勤王倒幕を志し新選組から分派したのが御陵衛士であるが、薩摩藩に接近するための手土産として龍馬を斬ったという説である。龍馬を斬ることが手土産になるのかという点も疑問だが、当時御陵衛士は新選組局長・近藤勇暗殺を画策していたので、龍馬暗殺まで手が回らなかったのではないか。
あとがき
今井信郎は釈放された後、キリスト教を深く信仰するようになったという。その教えに触れたことで、龍馬暗殺に対して深い罪悪感を覚えるようになったとされている。それが、龍馬暗殺の告白につながったのではないだろうか。そして、明治維新後の世界に生き静岡県初倉村の村長を務めるなど充実した生活を送る中で、龍馬の描いた構想も悪くはないと実感したのかもしれない。
【主な参考文献】
- 木村幸比古『龍馬暗殺の謎 諸説を徹底検証』(PHP研究所、2007年)
- 桐野作人『龍馬暗殺』(吉川弘文館、2018年)
- 潮美瑶『誰が龍馬を殺した!』(まんがびと、2015年)
- 川島修『幕末の中央政局と龍馬暗殺』(2022年)
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