【織田信長と官位 その2】信長の官職辞任のワケ…本能寺がなければ「将軍信長」「織田幕府」誕生の可能性もあった!?
- 2024/05/21
しかし、そんな信長も天正6年(1578)に突如として官職を辞任しています。本記事では信長の辞任理由と、朝廷の対応について考察したいと思います。
※本記事は 【織田信長と官位 その1】若い頃の信長は官職を勝手に名乗っていた? の続編です。
信長、官職を辞す
天正6年(1578)4月9日、正二位・右大臣兼右近衛大将の信長は突如官職を辞任しました(位階は保持)。そのときの様子が公家の日記『兼見卿記』(天正6年4月9日条)に書き残されています。これによると、信長が辞官することを聞いた公家衆は、飛鳥井雅教の邸宅に集まって会合を開き、信長が差し出した「奏達状」が共有され、そこには以下の内容が記されていました。
- ① 官職の昇進を重ね、恩義を感じているが、敵対勢力の征伐が終わらないため、信長は官職を辞任する。
- ② 敵対勢力の討伐が終わり、平和になったときに、勅命に応じて朝廷を支えたい。
- ③ 高い地位の官職を信忠(信長嫡男)に与えて欲しい。
信長の人物像を「時代の革命児」「革新的」と考えられてきた頃は、信長が朝廷や官位制度を否定していたとする根拠の1つとして、信長の官位辞職が挙げられていました。しかし、近年の研究では、信長が位階(正二位)を返上していない点や、信忠に高位の官職を求めていた点などから、信長は朝廷や官位制度を否定していなかったと考えられています。
ちなみに嫡男の織田信忠は本能寺の変(1582)で亡くなるまで、官職(左近衛中将)を辞職していません(位階は従三位)。このことから織田政権全体という視点からみると、織田政権は朝廷を否定していたとはいえないでしょう。そうなると当然、信長も朝廷を否定していないことになりますので、織田政権は歴代の武家政権のように朝廷制度の枠組みのなかに位置していたと考えられます。
それでは次に信長の官職辞任の背景を探りたいと思います。
背景1:播磨国・別所長治の離反
先ほどの「奏達状」には、信長は官位の昇進について有難く思っているが、各地の勢力との戦争状態が続いているため、官職を辞任したい旨が述べられています。ここで注目したいのは当時の信長と諸勢力との外交状態です。信長が辞官した天正6年(1578)、織田政権は各地に重臣を派遣して、敵対勢力の攻略に当たっていました。具体的には濃尾地方の織田信忠(対武田氏)、北陸の柴田勝家(対加賀一向一揆・上杉氏)、中国の羽柴秀吉(対毛利氏)、畿内の佐久間信盛(対本願寺)などです。
信長が官職を辞める2ヶ月前の天正6年(1578)2月、播磨国(現在の兵庫県南西部)三木城主・別所長治(べっしょ ながはる)が織田方から離反し、毛利方に寝返りました。
あたりまえのことですが、私たち現代人は、信長の事績を歴史上の出来事として知っています。しかし当時を生きた人々は、未来のことがわかるはずもなく、諸勢力との戦いもどちらが勝利するかわからない状況の中で、対立関係は継続していました。
こうした中の翌3月、信長は小寺官兵衛(黒田官兵衛)宛ての書状で、長治の謀反を「言語道断」のことであるとし、急いで「成敗」するように、と記しています。
この書状から、信長は激怒して早期に長治を討伐するつもりだったことがわかります。そして翌月の9日に信長は官職を辞任しているのです。 つまり、信長の官職辞任の理由にあった「各地の勢力との戦争状態が続いているため」の背景には、このような事情があったとみられます。
辞任後、信長は播磨に出陣するため、嫡男信忠に急いで軍勢を引き連れて上洛するように指示、さらに次男信雄・三男信孝・弟信兼にも同様の指示を出しています。この播磨出陣は別所氏に対応するためと考えられ、辞任後の信長は播磨情勢の早期の安定化を企図していたことが窺えます。
しかし実際には、別所征伐は長引き、落城までに2年近くを要しています。最終的には兵糧が無くなったことで降伏、長治とその一族の切腹と引き換えに城兵は助命されることになりました。この城攻めは「三木の干殺し」として有名で、秀吉の輝かしい戦績の1つとされています。ただ、信長の当初の方針としては、もっと早期に決着を着けたかったのではないでしょうか。
背景2:後継者・信忠のアピール
ところで「奏達状」には、敵対勢力との対立関係だけでなく、嫡男信忠に高位の官職を授けて欲しいとする、信長からの要望も書かれていました。 織田信忠は弘治3年(1557年)に、信長の長男として誕生。天正元年(1573)頃に元服したとされ、同年の北近江浅井氏を滅亡させた戦いに従軍した記録があります。以降、天正2年の長島一向一揆攻めや、同3年の長篠の合戦などに従軍、同年の岩村城攻めでは織田軍の総大将を務め、甲斐武田方に属する岩村城を攻略。その直後には信長から織田家の家督と尾張・美濃を譲られました。
また信長が安土城に移った際には岐阜城も与えられています。さらに家督相続後からは、合戦での指揮を信長から任せられることも多くなり、信忠は美濃・尾張において隣国の武田氏に備えつつも、松永久秀の討伐や本願寺攻め等にも出陣しています。
こうした信忠の活躍ですが、信長は信忠に実績を積ませることで「信長の後継者は信忠である」と、内外にアピールする目的があったものと思われます。前述の奏達状 ③「高い地位の官職を信忠(信長嫡男)に与えて欲しい」についても、後継者としての信忠の地位を固めるための一環であったと考えられるでしょう。
自ら官職を辞めることを通じての「後継者・信忠」のアピール。つまり、信長はしっかりと官位制度を利用していたということです。
朝廷の対応は?
最初に朝廷の動きがあったのは、信長が辞職してから3年後の天正9年(1581)3月です。前年には石山本願寺との和睦が成立して、本願寺は石山の地を退去。10年近く断続的に続いた「石山戦争」が終結。この頃の信長勢力は、信長が辞職した天正6年時点と比較すると、さらに拡大しており、各敵対勢力との対立状況も優勢となっていました。
こうした中、朝廷は「左大臣」の官職に就かないかを信長に打診します。信長は正親町天皇(おおぎまちてんのう)が譲位し、誠仁親王が即位したときに任官する旨を返答しました。
誠仁親王は正親町天皇の第1皇子で次期皇位継承者でした。この信長の申し入れは、かつては信長から朝廷への圧力と考えられ、「信長革新論」の根拠の1つにされることもありました。しかし近年の研究では
- もともと正親町天皇側が高齢を理由に譲位を望んでいたこと
- 明治天皇以前の天皇は生前に譲位することが多かったこと
などが指摘されるようになり、現在は信長の圧力は無かったと考えられています。
さて、信長の返答を受け、朝廷側は譲位について検討しますが、「金神」のために譲位は延期となり、信長の左大臣就任も見送られました。
「金神」とは陰陽道における神の1人とされます。陰陽道は現代でいうところの占いのようなもので、朝廷は陰陽道を重視していました。「金神」は凶の神とされ、天正9年は「金神」=「凶」にあたる年であることが判明したために譲位は見送られたのです。
次に動きがあったのが、翌天正10年(1582)4月です。朝廷は再び信長に官職に就くよう求めました。このとき朝廷は村井貞勝(織田政権の京都所司代)と事前に協議していたようで、驚くべきことに貞勝は「太政大臣」「関白」「将軍」のいずれかを信長に勧めてはどうか、と提案していたようです。
この提案を受けた朝廷は内部で検討し、5月4日に勅使が安土城の信長を訪れ、信長に将軍職に就くように求める正親町天皇からの手紙(綸旨)を、応対した信長の小姓・森蘭丸に渡しました。
「将軍ニなさるへきよしと申候ヘハ、又御らんもって御書ある也」
「天正十年夏記」は、当時武家伝奏を務めていた勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』の一部であると考えられています。
それでは、信長はどのように返答したのでしょうか?
ここでもし信長が将軍就任要請を受諾していれば、「将軍信長」「織田幕府」が誕生していたと思います。しかし、朝廷側や信長側の記録に詳しい記録は残っておらず、ハッキリしたことはよくわかっていません。信長は辞退、もしくは保留にしたのではないかと考えられています。
それから約1ヶ月後、毛利氏征伐のために僅かな兵で京都本能寺に宿泊していた信長は、明智光秀による突然の裏切りで、その生涯を終えました(本能寺の変)。このため、最終的に信長が官職に復帰することはなかったのです。
おわりに
いかがだったでしょうか? 今回は「織田信長と官位 その2」ということで、信長の官職辞任の背景やその後の朝廷の対応について考察してきました。信長研究については、近年急速に進展するようになり、従来の見解とは異なる見解が多く提示されるようになりました。今後もさらなる研究の発展が期待されます。
【参考文献】
- 岩澤愿彦「本能寺の変拾遺―『日々記』所収天正十年夏記について―」(『歴史地理』)通篇560号、1968年)
- 奥野高広『織田信長文書の研究』(吉川弘文館、1988年)
- 金子拓・遠藤珠紀新訂増補版校訂『兼見卿記』(八木書店、2014年)
- 金子拓『織田信長<天下人>の実像』(講談社、2014年)
- 柴裕之『織田信長―戦国時代の「正義」を貫く―』(平凡社、2020年)
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