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甲相駿三国同盟で嫁入りした女性たちの後半生を追う
- 2024/06/19
群雄割拠する戦国時代において、利害関係が一致した大名同士が同盟を組むケースは少なくありませんが、3つの国が同盟を結んだ稀有な例があります。甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元による三国同盟です。
婚姻関係強化で成立した同盟
武田、北条、今川が三国同盟を結んだ理由は、それぞれが領土拡大を目指すために後顧の憂いを無くしておこうと考え、その利害が一致したためです。同盟の証として婚姻関係を強化することになり、武田信玄の娘・黄梅院が北条家嫡子の氏政に、今川義元の娘・嶺松院が武田家嫡子の義信に、北条氏康の娘・早川殿が今川家嫡子の氏真にそれぞれ嫁ぎました。
やがて、各大名の勢力地図に変化が生じてくると、三国同盟もほころびが現れ、ついには同盟解消という事態に陥ってしまいます。当然ですが、嫁いだ娘たちにも「茨(いばら)の道」が待ち受けていたのです。
では、一人ずつ後半生を見ていきましょう。
北条家に嫁いだ信玄の娘
信玄の娘・黄梅院は、天文23年(1554)に氏政のもとに嫁ぎました。武田家と北条家の婚姻関係は初めてだったようで、信玄は大規模な輿入れ行列で門出を飾ってあげたそうです。夫婦仲は円満だったようで、嫡子となる氏直をはじめ、多くの子宝に恵まれました。北条家の妻としてつつがない生活をおくっていた黄梅院でしたが、その生活も長くは続きませんでした。
信玄が弱体化した今川領の駿河に侵攻したことで三国同盟が破棄され、武田家と北条家も敵対関係となります。氏康は報復として、氏政と黄梅院を離縁させたうえで、甲斐に送り返してしまうのです。
愛する夫や子供たちと引き離された黄梅院は、永禄12年(1569)に27歳という若さで亡くなりました。
武田家に嫁いだ義元の娘
義元の娘・嶺松院は、天文21年(1552)に義信のもとに嫁ぎました。今川家と武田家は、信玄の父・信虎の代から婚姻関係があり、嶺松院も安心して嫁ぐことができたと思われます。義信との間には一女がいましたが、男子には恵まれませんでした。そして、嶺松院の運命を変えてしまう出来事が起きてしまいます。実父の今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれてしまったのです。
義元の嫡子・氏真の統治能力を疑問視した信玄は、駿河への侵攻を目論みますが、義信は嶺松院の実家である今川攻めに反対します。親子対立は義信の謀反を招き、最後は義信の非業の死にまで至ってしまいます。
義信と死別した嶺松院は駿河に戻ったとされ、その後の消息はよく分かっていません。一説には、出家して貞春尼となり、徳川秀忠の女性家老を務めたとされています。
今川家に嫁いだ氏康の娘
氏康の娘・早川殿は、天文23年(1554)に氏真のもとに嫁ぎました。北条家と今川家は同盟と敵対を繰り返していましたが、この婚姻によって再び同盟関係が結ばれました。氏真との夫婦仲は良かったようで、4男1女の子宝にも恵まれました。ところが、桶狭間の戦いで義元が討ち死にし、氏真は待ったなしで強大な今川家を継がなければならなくなったのです。
領国経営は氏真には重荷だったようで、やがて北の武田信玄、西の徳川家康から攻め立てられ、早川殿が徒歩で逃げなければならなくなるほど追い詰められます。ついに大名としての今川家は滅び、二人は北条家を経て、徳川家に身を寄せることになりました。
晩年は京都や江戸に居を構え、氏真とともに静かに暮らしていたといいます。早川殿が夫に看取られながら亡くなったのは慶長18年(1613)のことでした。
おわりに
戦国大名たちの権力争いに巻き込まれた3人の娘たち。黄梅院は若くして亡くなってしまい、嶺松院は実家の今川家が攻め滅ぼされるという悲劇を味わいました。早川殿も波瀾万丈の前半生をおくりましたが、夫と生涯を添い遂げられたという点では、一番幸せだったのかもしれませんね。
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