【沖縄県】首里城の歴史 琉球王国の歴史と文化を象徴する城
- 2024/07/11
平成31年(2019)に残念ながら焼失してしまったものの、令和8年(2026)の正殿復元に向けて、着実に工事が進んでいます。そんな首里城の530年に及ぶ歴史をひも解いていきましょう。
察度の時代に築かれた首里城
琉球国王・尚氏は、歴代にわたって首里城を王宮としました。ただし、それ以前にも首里城が存在していたことが知られています。琉球には12世紀頃から一定の勢力が現れ、互いに抗争と和解を繰り返してきました。そんな中、14世紀に察度(さっと)という人物が現れ、地域の有力者として信望を集めます。
やがて察度は中山王国の初代国王となり、最初の首里城を築きました。ここから琉球は、北山・中山・南山が割拠する三山時代を迎えます。
1427年に建立された『安国山樹華木記碑』によれば、首里城外苑部にある「龍潭」を造営した記録があることから、尚氏の時代を迎える以前から、王城として機能していたのでしょう。ちなみに龍潭は人工の池のことで、明国からの冊封使(さっぽうし)をもてなす場でした。すでに首里城が政治・外交の舞台だったことがうかがえます。
また江戸時代の『琉球国由来記』には、初期首里城の伝承が記されていて、「高世層裡殿」という巨大な楼閣が備わっていたというのです。
「当国、楼は、察度王、始めて高世層裡、下之玉庭の南に造営す」
そのような記録は16世紀にも存在しており、1576年に天界寺の火災が飛び火し、高世層裡殿が類焼したと記されています。ただし、高世層裡殿の存在は伝承の域を出ず、長く立証されませんでした。ところが平成7年(1995)の発掘調査では、伝承と符合する地点で、建物礎石と大和系灰色瓦が検出されています。
測定によれば14世紀後半~15世紀前半のものとされ、つまり尚氏によって整備される以前から、瓦葺き建物が存在していたことが確認されたのです。
尚巴志によって大規模な王宮となる
中山では察度の死後、子の武寧が跡を継ぎましたが、1405年になると、南山の伊覇按司・尚巴志が中山へ攻め込んできました。武寧は抗しきれずに逃亡し、尚巴志は首里城をあらためて王宮と定めています。さらに北山を攻め取ったことで、ここに初の統一王朝となる琉球王国が誕生しました。尚巴志は首里城の本格的な整備に取り掛かり、首都にふさわしい威容に整えたといいます。
1453年に博多の商人・道安が、朝鮮王朝へ献上した地図に近い「琉球国図」によれば、石積みを駆使した内郭、そして土塁によって築かれた外郭が確認でき、首里城は二重構造を持つことが確認できます。
ところが尚巴志が整備した首里城は、国王の子たちが跡目をめぐって争った「志魯・布里の乱」によって焼失。まもなく再建されたといいます。
1456年の記録によれば、首里城は内城・中城・外城で構成され、それぞれの郭に役割があったようです。
まず内城には、二層三階の正殿や回廊などがあり、中城は護衛の兵たちが詰めるスペース、外城には倉庫が立ち並んでいました。詳細は不明であるものの、引き続き政治・外交の場として、また儀礼・祭祀を執り行う王宮として機能していたのでしょう。
さて、第7代国王・尚徳が亡くなったあと、琉球王国で内乱が起こりました。尚徳の信頼を得ていた家臣・金丸(のちの尚円王)がクーデターを起こし、尚徳に連なる者を殺害、あるいは追放してしまったのです。
尚思紹
┃
尚巴志
┏━━━┳━━━┫
尚泰久 尚金福 尚忠
┃ ┃
尚徳 尚思達
さらに金丸は、尚氏の後継者となる大義名分を得るため、亡き尚徳の養子と称して「尚円」と名乗り、琉球国王に収まってしまいました。
この二つの尚氏は王統が繋がらないことから、尚徳までを「第一尚氏」、尚円以降を「第二尚氏」と呼んでいます。
祭祀と儀礼の空間だった首里城
第二尚氏による琉球支配が始まって以降、首里城の改修・整備はますます進んでいきます。第3代国王・尚真の時代には、石積を用いた外郭が整備され、歓待門や久慶門が増築されました。さらに第4代国王・尚清の治世期には、東南の外郭整備や経世門が造られ、現在見られる首里城の形状が完成しています。
さて、首里城の中心となるのが、正殿と御庭(うなー。オレンジと白の縞模様の中庭のこと)です。正殿は三階建て構造になっており、一階の「下庫理(しちゃぐい)」は、主に国王が政治や儀式を執り行う場として、二階の「大庫理(うふぐい)」は、国王や親族・女官らが儀式を行う空間となっていました。
発掘調査では、過去から現在にいたる正殿基壇(建物土台)が検出されており、5期にわたる変遷を見ることができます。また瓦などの埋蔵物や史料などと合わせて、正殿は少なくとも7回以上、建て直されたことが判明しているそうです。
この正殿基壇遺構は「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして、世界文化遺産に登録されていますが、正殿の復元が終わる令和8年(2026)まで見ることができません。
次に、正殿・北殿・南殿に囲まれた空間が「御庭」となります。ここは様々な儀式が行われる広場であり、磚(せん)と呼ばれる色違いの瓦が、ライン状に敷き詰められていました。これは儀式の際、諸官が位階の順に並ぶ目印の役割を持っていたとか。
そして正殿の裏側には、「御内原」と呼ばれる区画があります。国王やその家族、女官らが居住する生活エリアで、江戸城大奥のような男子禁制の場となっていました。
さて、首里城の東南部には、城内最高所を含む一帯に「京の内」が広がっていました。「気おのうち」とも呼ばれ、霊力が満ちる場所という意味があります。京の内には、琉球神道における宗教施設である「御嶽(うたき)」が数多くあり、神女たちによる祭祀・儀礼が執り行われていたそうです。
それにしても、京の内に御嶽が集中しているのはなぜだったのでしょう?実のところ琉球王国は、宗教によって支えられた国家であり、とりわけ祭祀は非常に重要なものだったからです。
五穀豊穣や航海の安全を神に祈り、人民を安らかに導く…。
それが政治の安定に繋がると考えられていました。首里城にたくさんの御嶽があった理由、それは祈りを捧げる神女たちが各地へ散らばることで、国王や国家の威徳を伝えるためだったのでしょう。つまり、首里城は宗教ネットワークの拠点でもあったのです。
薩摩藩の間接支配を受ける琉球王国
勢力を拡大し、海外との交易利権を手に入れた琉球王国は、16世紀に黄金期を築き上げました。ところが、第7代国王・尚寧が即位した頃から、琉球王国は日本の干渉を受けるようになります。やがて日本との関係は複雑なものとなり、1609年には島津氏の軍勢が琉球へ攻めてきました。実質的な降伏を余儀なくされた琉球王国は、間接的とはいえ島津氏に支配される立場となったのです。
また、キリシタン禁制や貿易統制といった幕藩体制の規制が適用され、琉球国内でも検地や宗門改、通航管理などが実施されるようになりました。
こうしたことから、祭祀と儀礼の城だった首里城にも大きな変化が訪れます。それは国家・人民の安泰を願う儀礼に加え、薩摩藩に対する服属儀礼が加わったためです。
まず琉球国王は王位継承時に、「王位起請文」を薩摩藩へ差し出しました。さらに薩摩藩主が家督相続する際にも「家督起請文」を作成したようです。
これは薩摩藩主に対して、琉球国王が服属することを表明する意味があり、改めて琉球王国が属国であることを示すものでした。しかも薩摩藩の在番奉行が立ち会う中で、国王が署名・血判していたようです。つまり薩摩藩との関係において、首里城は服属儀礼の場になっていたと言えるでしょう。
受難の時代を迎えた首里城
日本では明治維新になって新政府が誕生し、1871年に廃藩置県が実施されています。薩摩藩は鹿児島県となり、琉球はひとまず鹿児島県の管轄下に置かれました。ところが1875年、明治政府は王府高官を上京させ、琉球を日本へ帰属させる意向を伝えたのです。そして清国との冊封・朝貢関係を停止させ、明治の元号を用いること、日本の刑法を施行することを要求しました。琉球王国はようやく国家存亡の大事と認識し、日本側と交渉を重ねるいっぽうで、清国に窮状を訴えています。
事態が好転しない中、ついに日本側は武力による琉球併合を決定。1879年に陸軍兵300人余りと、警察官160人を差し向けました。
琉球処分官・松田道之は、反対派の嘆願に耳を貸すことなく処分を断行し、琉球国王・尚泰はじめ、王府首脳や重臣らは、東京への移住を命じられます。やがて首里城から、儀礼用の道具や美術工芸品、衣装や家具など数百年にわたる収蔵品が持ち出されます。同日に尚泰やその家族、重臣たちが首里城を退去し、東京へ移っていきました。
その直後、首里城は陸軍熊本鎮台へ引き渡され、正式に沖縄県設置が布告されました。この時をもって、察度いらい530年続いた王宮・首里城は終焉を迎えたのです。
ちなみに首里城へ派遣された鎮台兵は1個中隊ほどですが、正殿は兵卒の寝室として利用され、南殿は士官室に、そして北殿は自習室として活用されました。また御庭は磚が剥がされて、練兵場となっています。
やがて首里城は定期的な補修を受けなかったことから、老朽化が目立つようになってきました。1897年には美福門が腐食で倒れ、そこから10年に一度のペースで門が倒壊するようになります。
そこで首里市に対して、城跡が公園用地として払い下げられるのですが、財政難の市に補修を行う余裕などありません。1923年、ついに正殿の取り壊しが決議されました。
しかし、これに待ったを掛けたのが、沖縄文化研究者の鎌倉芳太郎です。日本建築界の第一人者と謳われた伊東忠太に掛け合ったことで、ようやく国から解体中止命令が出されました。そして歴史学者・黒板勝美の尽力もあり、首里城一帯が「史蹟名勝天然記念物」に指定され、続いて正殿が「国宝」に指定。1928年には「昭和の修理工事」が始まり、ようやく首里城はかつての姿を取り戻しました。
とはいえ、首里城の受難はまだ続きます。太平洋戦争末期に戦場となった沖縄では、首里城の地下に第32軍司令部が置かれ、米軍の凄まじい攻撃によって首里城は跡形もなく吹き飛ばされてしまいます。
ようやく正殿の復元が成ったのは、実に1992年のことでした。
おわりに
首里城の歴史は、まさに受難続きだったと言えるでしょう。過去から幾度も戦火や火災に見舞われ、1992年に復元された正殿も、2019年の失火によって全焼しています。しかし首里城は失われるたびに新たな姿を見せてきました。時代の変化に応じて形を変えつつ、ずっと琉球のシンボルであり続けたのです。
さて、2026年に復活する首里城は、どんな素晴らしい姿を見せてくれるのでしょうか?今から楽しみで仕方ありません。
補足:首里城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
14世紀末頃 | 初代中山王・察度によって最初の首里城が築かれる。 |
1406年 | 尚巴志が中山王・武寧を追放。その後、首里城の改修整備が行われる。 |
1453年 | 志魯・布里の乱によって首里城が焼失。翌年から再建が始まる。 |
1470年 | 金丸が王位に就き、尚円と名乗る。 |
1609年 | 島津氏が琉球へ侵攻し、尚寧が薩摩へ連行される。 |
1709年 | 首里城の正殿と北殿が火災で焼失。1715年に再建が完了。 |
1853年 | 米国海軍のペリー提督が琉球へ来航。首里城入城を強行する。 |
1866年 | 清国より最後の冊封使が首里城へ入る。 |
1874年 | 大久保利通が「琉球藩処分着手の儀」を提議。 |
1879年 | 琉球処分官・松田道之が、首里城明け渡しと東京移住を通達。 |
同年 | 首里城が熊本鎮台兵の駐屯地となる。 |
1896年 | 熊本鎮台沖縄分遣隊が撤退。 |
1923年 | 首里市が正殿の解体を決議。鎌倉芳太郎・伊東忠太の尽力で中止命令が出される。 |
1933年 | 正殿や門などが国宝となり、昭和の修理工事が完了する。 |
1945年 | 沖縄戦による戦災で主要な建物が失われる。 |
1958年 | 守礼門が復元される。 |
1992年 | 正殿の復元が完了し、首里城公園が開園。 |
2000年 | 正殿基壇遺構が「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、世界文化遺産に登録される。 |
2006年 | 日本100名城として選定される。 |
2019年 | 火災によって、正殿など主要建造物が焼失する。(2026年に復元予定) |
【主な参考文献】
- 島村幸一『首里城を解く 文化財継承のための礎を築く』(勉強社 2021年)
- 沖縄タイムス首里城取材班『首里城 象徴になるまで』(沖縄タイムス社 2021年)
- 与那原恵『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』(筑摩書房 2013年)
- 上里隆史『尚氏と首里城』(吉川弘文館 2016年)
- 上里隆史・山本正昭『沖縄の名城を歩く』(吉川弘文館 2019年)
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