川崎大師のはじまりが面白い! 川崎大師の創設者・平間兼乗の信仰心と奇跡の物語

 参拝客の多い寺社ランキングを見ると「明治神宮」「成田山新勝寺」に次ぎ、「川崎大師」の名前があります。この川崎大師(神奈川県川崎市川崎区大師町)のはじまりは一人の漁師の信仰心からと知り、驚きました。

 この記事では川崎大師を創った男についてご紹介したいと思います。

川崎大師の概要

 神奈川県にある川崎大師は、正式には平間寺(へいけんじ)といいます。京都東山七条の智積院を総本山とし、成田山新勝寺(千葉県成田市)、髙尾山薬王院(東京都八王子市)とともに、真言宗智山派の関東三大本山の寺院のひとつです。平安時代、12世紀の初め頃に創られました。

 諸々の災厄を除いてくれることで有名です。日本で有数の参拝客の多いお寺であり、年間300万人くらい来るそうです。

 私が参拝した時は平日だったので、人はまばらでしたが寺の境内の広さに驚きました。ここが初詣の時期には人が溢れるくらいになるとは、すごいことですね。川崎大師は人々の心の拠り所になってきたのでしょう。

※参考:川崎大師平成31年初詣のダイジェスト動画(大本山川崎大師平間寺)

川崎大師のはじまりは真面目な漁師から

 寺社のはじまりにはそれぞれ理由や逸話があるようですが、川崎大師は実に面白いと思いました。

 平安時代の終わり頃、川崎に平間兼乗(ひらま かねのり)という訳ありな男がいました。この人は元々、尾張名古屋の出身だったそうです。

 というのも、実は平間兼乗はもともと武士でしたが、父である平間兼豊と一緒に無実の罪を着せられ、生国名古屋を追い出されてしまったのです。なんだか気の毒な話ですね。

 父子はなんとか川崎の地に辿り着き、土地に馴染んだ兼乗は漁師をして暮らしていました。とても勤勉だったそうです。おそらく川崎の海が彼を癒してくれたのかもしれませんね。それまでの人生いろいろあったこともあり、深く仏法に帰依し、特に弘法大師(空海)を崇信していたのです。

 そんなある日、兼乗の夢に高僧が現われ、大事なお告げがありました。

「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁の人を得ず。いま、汝速やかに網し、これを供養し功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳なり諸願もまた満足すべし」

 つまり、僧が言うには「海に自分の像が放たれたままだから大変である。早く拾ってきて供養しておくれ。そうすると、君の災いもなくなり、願いが叶うよ」と。

 さて、この高僧は誰だったのでしょう? とにかく兼乗はお告げの通り、海に放りっぱなしになっている像を探さねばなりませんでした。善人の彼ですから、急いだことでしょうね。

 そして翌朝漁に出ると、海上にひときわ輝いている場所がありました。そこへ網を投じると、なんと、海から木彫りの像が引き上げられたのです。

 夢のお告げは本当でした。それは弘法大師尊像でした。

 ずっと弘法大師(空海)を崇拝してきた兼乗は、これを奇跡以上に思ったことでしょう。感激して涙が溢れたに違いありません。海中から引き揚げた木像を浄め、ささやかな草庵にお祀りしました。彼はお金を持っていなかったので、寺などは建てられなかったのです。

 けれど朝夕欠かさず供養を捧げました。選ばれた人間なのですから、大師様のために何かしなければいけないと思ったのでしょう。こんな奇跡があるとしたら、やはり今も昔も人は勤勉に生きるべきなのでしょう。

善通寺の弘法大師像
善通寺の弘法大師像

尊賢上人現れる

 あるとき、偶然に兼乗のもとを立ち寄った僧がいました。諸国遊化の途中である高野山の尊賢上人という立派な方です。

 尊賢上人は尊像奉祀の由縁と兼乗の境遇を知って感激され、「よし、二人で力を合わせよう」と決めました。これも大師様のおかげでしょうか。兼乗の心がわかってもらえて良かったです。

 大治3年(1128)に寺を建立。兼乗の姓・平間から平間寺(へいけんじ)と号し、御本尊に厄除弘法大師を奉安されました。尊賢を開山、兼乗を開基としました。開山とは寺を開いた僧をいい、開基とは建てるためにお金を出した人をいいます。

 木像が落ち着くことができて皆、満足したことでしょう。そしてもう一つ、良い出来事が起きます。

 長承3年(1134)、お大師さまのご加護ご利益によってなのか、兼典の無実の罪が晴れ、生国尾張名古屋に帰ることができたのです。

 住み慣れた川崎を離れるのは少し淋しい気がしますが、無罪が認められて兼典は良い余生を過ごしたことと思います。

川崎大師のその後

 16世紀半ばには大師信仰の霊場として、相当に賑わっていたとされています。焼失もありましたが、江戸時代にはどんどんお堂や門が建立され、境内は整備されて発展していきました。

 武家に浸透していた厄除祈願の信仰は将軍家にも及び、11代将軍・徳川家斉をはじめ、歴代の将軍らが参詣しているそうですから、すごく格式も上がったことと思われます。もちろん庶民の間にも「厄除けのお大師さま」として知られるようになったのは、言うまでもありません。

おわりに

 庶民から将軍家まで、幅の広い階層の信仰に寺の特色があります。やはり川崎大師のはじまりに、その理由があると思いました。

 42才の厄年だった平間兼乗が一心に災厄消除を祈って、精進していたことが何よりの逸話です。我々も兼乗のように夢で偉人のお告げを受けてみたいものです。


【主な参考文献】
  • 『人づくり風土記:全国の伝承 江戸時代』(農山漁村文化協会、1987年)
  • 深瀬隆健『厄除弘法大師略縁起』(深瀬隆健発行、1883年)
  • 川崎大師公式HP

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  この記事を書いた人
さとうえいこ さん
○北条政子に憧れて大学は史学科に進学。 ○俳句歴は20年以上。和の心を感じる瞬間が好き。 ○人と人とのコミュニティや文化の歴史を深堀りしたい。 ○伊達政宗のお膝元、宮城県に在住。

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