【岐阜県】大垣城の歴史 関ヶ原の戦いで西軍本営となった城
- 2023/11/09
慶長5年(1600)9月15日、美濃において「天下分け目の戦い」と呼ばれる関ヶ原の合戦が起こりました。実はこの戦いが始まる数時間前、すでに東軍と西軍が衝突していたことを御存知でしょうか。その舞台となったのが大垣城です。
やがて西軍本営として機能するはずだった城は敵中に取り残され、関ヶ原の戦いが終わったのちに降伏・開城しました。
関ヶ原の戦いでクローズアップされることの多い大垣城ですが、城の歴史はそれだけではありません。室町時代から現代に至るまで、大垣城がどのような変遷を遂げたのか、詳しくご紹介したいと思います。
やがて西軍本営として機能するはずだった城は敵中に取り残され、関ヶ原の戦いが終わったのちに降伏・開城しました。
関ヶ原の戦いでクローズアップされることの多い大垣城ですが、城の歴史はそれだけではありません。室町時代から現代に至るまで、大垣城がどのような変遷を遂げたのか、詳しくご紹介したいと思います。
【目次】
織田氏と斎藤氏が奪い合った大垣城
大垣城は、美濃国守護土岐氏の家臣・宮川安定によって、天文4年(1535)に築かれたとされています。あるいは明応9年(1500)に竹腰尚綱が築城したという説もあるようです。この地は古代から東国への入り口にあたる不破関を睨む要地であり、築城以前には東大寺領大井荘に含まれていました。もともと宮川氏は、杭瀬川左岸に位置する若森城を居城としていましたが、大垣の地には浄専寺や善念寺があり、寺院や町を結ぶ街道も通っていたようです。その様子は『信長公記』首巻に「西美濃大柿の並びうしやの寺内」と記述があるほど。いわば大井荘内の経済・宗教活動の中心地だったことから、新たな築城地として選ばれたのでしょう。
その後、美濃では斎藤利政(道三)が土岐頼芸を尾張へ追放し、美濃国主の座に収まりました。いっぽう尾張の織田信秀は、朝倉氏とともに頼芸を支援。大軍を率いて美濃への侵攻を企てようとします。
天文13年(1544)、大挙して押し寄せた織田軍は大垣城を攻略。『信長公記』によれば、織田播磨守が城主になったとされています。しかし天文16年(1547)には信秀が加納口の戦いで大敗。斎藤氏は大垣城を取り戻しました。
歴代城主によって改修されていく大垣城
永禄2年(1559)頃、斎藤氏の重臣・氏家直元が、楽田城から大垣城へ移ってきました。この時に城は堅固なものへ改修されたといいます。まず堀の掘削や土塁の構築が大々的におこなわれ、数年後に松の丸が完成。城域はより大規模となりました。さらに浄専寺や善念寺といった寺院を城外へ移すことで、城郭と城下町が整備されたようです。現在も地名として残る本町・中町・竹島町・魚屋町などは、直元の時代に完成したとみられます。
氏家氏は直元・直重と続きますが、天正11年(1583)に賤ヶ岳の戦いが終わると、池田恒興が新たに城主となりました。ところが恒興は翌年の長久手の戦いにおいて戦死し、その後は三好秀次・羽柴秀長・加藤光泰・一柳直末・羽柴秀勝・伊藤祐盛と頻繁に城主が変わっています。
羽柴秀勝、もしくは伊藤祐盛の時代に大改修が行われたとされ、この時期に天守の造営や、石垣の構築がなされたようです。乾隅櫓を再建する際、金箔が施された鬼瓦が発掘されていることから、羽柴秀勝期にあたる天正17年(1589)~天正18年(1590)にかけて天守が建てられたのでは?という可能性が高いとか。(大垣市文化財保護協会刊「大垣城の歴史」より)
また石垣の構築に関してですが、大垣一帯は沖積地にあることから石材は産出されません。そこで杭瀬川などの水運を利用して、美濃赤坂の金生山から石材を搬入する方法が取られました。
ちなみに大垣城の天守石垣は、全国でも珍しい石灰岩が用いられています。そもそも石灰岩はサンゴやウミユリ、紡錘虫などの死骸が固まってできた石ですから、目を凝らしてみると化石が含まれていることがわかるでしょう。
ただし石灰岩は柔らかくてもろいことから、切石加工には向きません。大垣城の天守石垣では加工を施さないものが多く、石積みの隙間が大きいことから「笑い積み」と呼ばれるそうです。
なお天守石垣の北西隅には、明治21年(1888)にあった大水害の水位が示されており、「水都」と呼ばれる大垣が、いかに水害と戦ってきたかを垣間見ることができます。
また三の丸付近の発掘調査では、天正期の瓦・土師器・箸などの遺物が発見されており、城主の暮らしの一端が確認されているそうです。
もう一つの関ヶ原「大垣城攻防戦」
慶長5年(1600)、東軍7万余と西軍8万余が美濃で対峙し、いよいよ関ヶ原の戦いが始まります。西軍首脳の石田三成は、当初の想定として尾張から伊勢を防御ラインとして考えていたようです。 三成が上田城の真田昌幸へ宛てた書状にあるように、まず福島正則を味方に引き入れたうえ、尾張で東軍の足を止めるつもりだったのでしょう。
「左衛方へは東海道うつの宮へ出合ひ候様にさわ山より両吏くだし申し候」
しかし正則の取り込みはあえなく失敗に終わり、三成は戦略の転換を余儀なくされました。そこで防衛ラインを美濃まで下げたうえで、大垣城を西軍本営として選んだのです。
ところが、またしても誤算が生じました。大垣城の東に位置する岐阜城が東軍の猛攻に遭い、たった一日で開城してしまったのです。こうなると大垣城は最前線となり、東軍が殺到してくる恐れもあるでしょう。
8月23日に岐阜城が落ちたあと、26日にいったん居城・佐和山城へ入って防備を整えた三成は、再び大垣城へ戻りました。ここで大きなポイントとなったのが、西に位置する南宮山です。
ここには毛利秀元や吉川広家らの大部隊が詰めており、もし東軍が大垣城を攻めれば後詰の役割を果たし、東軍を挟撃することが可能でしょう。つまり三成の作戦構想とは、大垣城の内と外から敵を挟み撃ちにするものでした。
ところが三成は不可解な行動に出ます。何と大垣城を放置したまま、西軍の主力を関ヶ原方向へ移動させたのです。通説では、家康が「佐和山城を抜いて大坂方面へ向かう」という噂を流したことから、三成がそれを阻止するべく関ヶ原へ向かったとされています。
とはいえ、主力の一人である大谷吉継は大垣城へ向かわず、関ヶ原の西にある山中へ陣を敷きつつあり、その南に位置する松尾山の古城には小早川秀秋が入っていました。
つまり三成は初めから複数の作戦パターンを考えており、もし東軍が大垣城を攻めれば、南宮山の後詰を動かす。いっぽう東軍が赤坂から動かないようであれば、あえて中山道の要衝を扼して阻止行動に出る。2つの作戦構想を持っていたのではないでしょうか。
こうして西軍主力が去ったあと、大垣城では三成の妹婿にあたる福原長堯が主将となり、7500の城兵とともに守備に就きました。いっぽう東軍も水野勝成ら抑えの軍勢を残したまま、西軍を追って関ヶ原へ向かっていきます。
そして9月15日の明け方、関ヶ原本戦に先んじて大垣城攻防戦が始まりました。早くも三の丸を占拠した東軍ですが、二の丸で激しい抵抗にあったことから一時的に退避。まもなく本戦における勝利が伝わったことで、水野勝成は方針を転じて城内の切り崩しを図ります。
さっそく相良頼房・秋月種長らが応じ、二の丸にいた垣見一直や熊谷直盛らを謀殺しました。本丸に残った福原長堯も程なくして説得に応じ、ついに大垣城は東軍の手に落ちたのです。
この攻防戦のさなか、家族とともに大垣城に籠もった「おあむ」という少女が、落城寸前の城から脱出しました。凄まじい戦いの様子を語り継いだという内容が「おあむ物語」として、現在まで伝えられています。
戸田氏鉄の改修によって近世城郭へ生まれ変わる
関ヶ原の戦いで陥落した大垣城ですが、翌年まで松平康重が城番として在城しました。それ以降に城主となった大名はいずれも徳川譜代であり、石川氏・松平氏・岡部氏などが続いています。この間、大垣城では惣堀の掘削や、天守の改修工事などが進められますが、本格的な近世城郭へ生まれ変わるのは、戸田氏の時代を待たねばなりません。
寛永12年(1635)、摂津尼崎より戸田氏鉄が大垣へ入封し、幕末に至るまで戸田氏が領するところになりました。なお大垣藩における氏鉄の治世は18年に及び、城を大改修しただけでなく、新田開発や治山治水事業を奨励。さらに領国経営や家臣団編成に専念したことで、この頃に藩の基礎が出来上がっています。
さて、面目を一新した大垣城は、内堀や外堀を合わせて三重の堀に囲まれ、附櫓を従える天守が威容を誇りました。また本丸には巽櫓や艮櫓をはじめ4基の櫓が配されたといいます。さらに二の丸には4基の三重櫓に守られた御殿があり、廊下橋で本丸と繋がっていたそうです。
ちなみに三の丸は、本丸・二の丸を囲むかのような同心円状になっていて、その外側を町屋や侍屋敷などがぐるりと取り巻いていました。いずれも水堀によって区画されていたことから、かつての大垣城は美しい水城だったに違いありません
やがて明治になって大垣城は廃城となりますが、天守など一部の建造物は破却を免れました。明治13年(1880)に本丸周辺が公園として整備され、昭和11年(1936)になると現存天守が国宝に指定されています。
しかしながら、水の城だった大垣城の威容はどんどん姿を消していきます。水堀は埋め立てられ、石垣は崩されて市街地化が進められていきました。現在では往時の姿を想像することは難しく、かつて外堀の役目を果たしていた水門川が、その名残を留めています。
また、近代の大垣は産業都市だったことから、太平洋戦争では空襲の標的となりました。国宝の天守や艮櫓は灰燼に帰し、大垣市街も甚大な被害を被ったといいます。もちろん戦後の復興も目覚ましいものがありましたが、その過程で一部残っていた内堀も埋められてしまったとか。
現在の城跡には、鉄筋コンクリート造りの模擬天守と乾櫓が再建されましたが、これは同じ岐阜県内にある郡上八幡城をモデルにしたそうです。そこで平成21年(2009)から始まった改修事業では、老朽化が著しい屋根瓦や外壁の全面改修を実施。その外観は焼失する前に近い状態へ復元されました。
現在の城跡は「大垣公園」として市民に親しまれ、お祭りや各種イベントが一年を通して開催されています。とりわけ春には200本の桜が咲き乱れ、白亜の模擬天守と相まって美しい情景を見せてくれるのです。
おわりに
織田氏と斎藤氏の争奪戦、そして関ヶ原における攻防戦と、大垣城の歴史は戦いと無縁ではありません。それも交通の要衝に位置し、経済を扼する要地だったためでしょう。しかし江戸時代の大垣は一転して産業・商業の中心地となり、美濃でもっとも栄えた地域となりました。また、大垣と伊勢桑名が水運で繋がったことにより、大垣は「水の都」としても知られています。とりわけ三重の水堀を持つ大垣城は、まさしく水都のシンボルだったことでしょう。
たしかに明治以降、城の破却や水堀の埋め立てによって、その痕跡は失われつつありますが、かつての大垣城を復興させようという動きも進みつつあるそうです。
これから近い将来、大垣城がどのような姿になっていくのか、楽しみにしたいところですね。
補足:大垣城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
天文4年 (1535) | 宮川安定によって築かれる。(明応9年に竹腰尚綱が築城した説もあり) |
天文13年 (1544) | 織田信秀が侵攻。織田播磨守が城主となる。 |
天文16年 (1547) | 加納口の戦いで織田軍が大敗。斎藤氏が大垣城を奪還する。 |
永禄2年 (1559) | 氏家直元が城主となり、改修が加えられえる。 |
天正11年 (1583) | 賤ヶ岳の戦いののち、氏家行広が美濃三塚城へ移封。代わって池田恒興が城主となる。 |
天正12年 (1584) | 池田恒興が戦死。その後、城主が頻繁に入れ替わる。 |
天正17年 (1589)頃 | 羽柴秀勝の時代にはじめて天守が築かれる。 |
慶長5年 (1600) | 関ヶ原の戦い。大垣城攻防戦が起こる。 |
慶長6年 (1601) | 石川康通が関ヶ原の戦功によって大垣城主となる。以後、城主がたびたび入れ替わる。 |
寛永12年 (1635) | 摂津尼崎より、戸田氏鉄が10万石で入封。幕末まで11代続く。(大垣城の大改修期) |
明治6年 (1873) | 廃城令によって城が破却される。(天守ほか一部の建造物は現存) |
明治13年 (1880) | 本丸周辺の約0.57haが公園として整備される。(大垣公園のはじまり) |
昭和11年 (1936) | 大垣城天守が国宝に指定される。 |
昭和20年 (1945) | 戦災により、天守と艮櫓が焼失。 |
昭和34年 (1959) | 模擬天守が外観復元される。 |
昭和42年 (1967) | 乾櫓が外観復元される。 |
平成29年 (2017) | 続日本100名城に選定される。 |
【主な参考文献】
- 三宅唯美・中井均「岐阜の山城ベスト50を歩く」(サンライズ出版 2010年)
- 日本城郭協会「城!②関ヶ原の戦いから江戸時代の終わりまで」(フレーベル館 2018年)
- 内堀信雄「戦国美濃の城と都市」(高志書院 2021年)
- 八幡和郎「江戸全170城 最期の運命」(イースト・プレス 2014年)
- 木村礎・藤野保ほか「藩史大辞典第4巻 中部編Ⅱ東海」(雄山閣 1992年)
- 小和田哲男「関ヶ原合戦までの90日」(PHP研究所 2013年)
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