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【やさしい歴史用語解説】「会合衆」
- 2024/04/19
室町時代から近世初期にかけて、各地に「自治都市」が生まれました。自治都市とは時の為政者の干渉を受けず、貿易や商業について特権を認められた町のことです。
会合衆とは、自治組織の指導的役割を担った商人たちのことで、堺や博多あるいは伊勢の大湊の会合衆が知られています。これまでは「えごうしゅう」と呼ばれるのが一般的でしたが、「かいごうしゅう」と読むのが正しいのだそうです。
さて、歴史上もっとも有名といえば、やはり堺の会合衆でしょうか。堺では文明元年(1469)に遣明船が港に着岸したことで国際貿易が盛んとなります。やがて堺は大きな経済発展を遂げていくのですが、その富を狙う守護大名や有力武士たちの跳梁が危惧されました。そこで会合衆が相談のうえ、北・東・南の三方に濠をめぐらせて外敵の侵入を防ぎました。こうして自治によって守られた自由都市として栄えていくのです。
ちなみに「会合衆三十六人」として知られているのは大きな誤解です。これは町の発展によって運営組織が増えたしたことによる意味の取り違えで、基本的に会合衆は10人でした。
記録によれば天正2年(1574)のこと、織田信長が堺の有力者10人を招いて相国寺で茶会を催した際、今井宗久や津田宗久らが名を連ねており、これが当時の会合衆であると考えられています。
堺の会合衆にとって危機が訪れたのは、織田信長が上洛を果たした直後のこと。信長は早くから堺の重要性に気付いており、堺を抑えることが何より重要だと考えていました。そこで会合衆を試すかのような無理難題を吹っ掛けるのです。それは「矢銭として2万貫を差し出せ」というもの。
現在の価値で数億円といいますから大変な金額です。とても飲めないと会合衆たちは反発し、信長への対決姿勢を鮮明にしました。ところが今井宗久だけは「堺を滅ぼすべきではない」と考えて堺を抜け出し、単独で信長との謁見を望んだのです。
名物茶器を携えて信長に相まみえた宗久ですが、信長の所作に驚いたといいます。当時の信長といえば34歳の壮年期にあたり、威厳と風格に満ちていました。また単なる田舎大名どころか文化的素養もあり、茶の湯の作法もきちんとわきまえていたとも。
感服した宗久は、持参した名物「紹鴎茄子」と「松島の茶壺」を二つとも信長へ献上し、他の会合衆の説得にあたることを約束しました。
そして宗久は津田宗及とともに説得を重ね、無事に矢銭が納められることになりました。ようやく堺の町は戦火から救われたのです。
それ以降、信長から気に入られた宗久は御用商人となり、織田家との商売を一手に引き受けます。やがて秀吉に仕えるようになると、日本一の豪商でありながら茶頭を務めました。
宗久が亡くなったのちも堺の商人たちは活躍を続け、朱印船貿易の時代には多く者が海外へ派遣されています。大坂夏の陣(1615)で一度は衰退した堺ですが、やがて「鉄砲の町」として見事な復活を遂げました。
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