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【やさしい歴史用語解説】「飢饉」
- 2024/06/11
「飢饉」とは日照り・長雨・台風などによる天候不順、あるいは虫害などによって農作物が不作となり、人々が飢えることを意味します。また時の政権による失政が重なることで、人為的な災厄をもたらすこともあるのです。
特に四季があって天候が目まぐるしく変わる日本では、歴史と飢饉は切り離せないものでしょう。現代では天候対策や品種改良が進んだことで被害は最小限に食い止められますが、そうではない時代では社会基盤を揺るがすほどの災害となりました。
飢饉に関するもっとも古い記録である『日本書紀』によれば、欽明天皇の時代に
「大水のために人々は飢えて人肉を食らった」
「凶作に遭って人身売買が横行した」
などと書かれ、当時の悲惨な様子がうかがえます。
記録が詳細になってくる中世では、時の政権すら脅かすほどの飢饉が起こりました。例えば養和元年(1181)に起こった「養和の飢饉」では、高温・日照りのために西日本一帯が凶作となり、兵や兵糧を集められなかった平氏は源氏軍の侵攻を許してしまいます。
また、15世紀半ばの「長禄・寛正の飢饉」においては、全国的な凶作で未曽有の犠牲者が出たのですが、将軍・足利義政は何ら有効な手段を打つことなく被害が拡大していきました。この飢饉によって室町幕府の権威は地に落ちたとも。
中世は農業技術が未発達だったこともあり、潅漑用のため池や水路なども十分ではなく、とにかく水利の良い場所だけに水を引いて水田を作っていました。そのため開墾はなかなか進まず、ひとたび凶作になると壊滅的な被害をもたらしました。
さて、江戸時代に入ると、幕府の奨励もあって爆発的に新田が増えていきます。また中世と比較しても人口は大幅に増加し、新しい農業生産技術も導入されました。
ところが不思議なことに、江戸時代中期に人口3千万人まで達しながら、それ以降は頭打ちとなって幕末に至るまでほとんど人口に増減が見られないのです。これはいったいどういうことでしょうか。
実はこの時代、気候学で言うところの「小氷期」に入っていました。すなわちプチ氷河期と呼ばれるものです。日本だけでなく世界は寒冷化し、作物が育ちにくい状況となっていました。
そのため新田こそたくさんあるものの、農作物が採れないという悪循環に陥ります。特に被害が大きかったのは東北地方を中心とする東日本で、もともと稲作に適していないうえに、天候不順や冷害という難敵が襲い掛かったのです。
江戸三大飢饉(享保・天明・天保)と呼ばれる飢饉のうち、二つが東北地方に壊滅的な被害をもたらしました。特に天明の大飢饉(1782~88年)では、数十万人規模の餓死者を出し、災害が治まったのちも復興までに長い時間を要したといいます。弘前藩では人口25万人に対して、実に死者が8万人という惨憺たる有様だったそうで、地域経済どころか社会そのものを破壊する天災となったのです。
飽食とされる現代では、食べることが当たり前になっていますが、過去の悲しい歴史を振り返ると同時に、食の大切さ・ありがたさに思いを馳せたいところですね。
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