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【やさしい歴史用語解説】「水軍」
- 2024/03/01
そもそも水軍と呼び始めたのは比較的最近のことです。それ以前は単純に「海賊」と呼んでいました。しかし地元にとって盗賊では具合が悪いということになり、郷土史家たちによって水軍という呼称が考え出されました。
古代には海にまつわる豪族たちが自前の水軍を持っていて、朝廷が派遣した交易船を警護したり、あるいは朝鮮半島へ出兵する際に徴発されていました。また海の後背地に森林資源を持つ氏族などは、自衛のために水軍を編成していたようです。
奈良~平安時代になると、律令制の崩壊とともに困窮した瀬戸内の島民が海賊行為を行うようになります。古くから瀬戸内海は畿内と西国を繋ぐ大動脈ですから、ここを航行する船が狙われました。これが海賊の発祥とされています。
さらに天慶2年(939)になると、藤原純友の乱が起こり、海賊が為政者に対して反乱するという事態となり、一気に社会不安が広まりました。
このように海賊の横行に頭を悩ませていた朝廷は、武家として存在感を示しつつあった平忠盛・清盛父子に討伐を命じます。そして長承4年(1135)、海賊を鎮圧した忠盛らは瀬戸内海一帯に大きな基盤を築きました。のちに清盛が大きな富を得ることができたのも、瀬戸内海を抑えていたに他なりません。
この頃には瀬戸内を含む各地の海域で水軍が出現しており、熊野水軍や阿波水軍、伊予水軍などの存在が確認されています。もちろん源平の戦いにおいても大きな役割を果たしています。
戦国時代になると、瀬戸内海の水軍は急激に成長を遂げていきます。能島・因島・来島を合わせた村上水軍が最も有名で、その中でも能島村上氏は「海の大名」として君臨しました。彼らは海上警護や水先案内といった役割を持ちつつ、状況に応じて大名の傭兵として働いています。
また海上交通網を生かした交易を活発に行っていて、紀州雑賀や堺からの海上輸送も担っていました。能島村上氏の場合、陸の領地こそ持たなかったものの、10万石の大名に匹敵する経済規模を持ったといいます。
やがて安芸の国衆から身を興した毛利氏が中国地方の主導権を握ると、その配下となって各地の海戦に加わっています。
ちなみに最も大きな戦いが二度にわたる木津川口の戦いでした。一度目は織田方の水軍を破るものの、二度目の戦いでは巨大な鉄甲船を前に手も足も出ず、あえなく敗退しています。
豊臣秀吉が天下人になると、水軍の活動は極度に制限されました。なぜなら天正16年(1588)に「海賊停止令」が出されたからです。いわばこれまでの職務を放棄して、豊臣もしくは特定大名の家臣になることを命じられたのです。
因島村上は毛利氏、来島村上は豊臣に属すこととなりましたが、能島の村上元吉は停止令に違反したとして筑前へ追いやられています。その後、毛利氏の家臣となった能島村上氏ですが、関ヶ原の戦い(1600)の時に西軍へ加担し、毛利氏の減封にともなって瀬戸内海を去りました。
また海賊大名として知られた九鬼氏も海を離れるなどして、水軍は歴史からその姿を消してしまったのです。
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