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【やさしい歴史用語解説】「建武の親政」
- 2024/08/26
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が自ら取り組もうとした治政。それが「建武の親政」と呼ばれる政治体制です。
かつて天皇政治の理想を成し遂げた醍醐・村上両天皇に憧れ、自らの「後醍醐」という諡号も醍醐天皇にあやかったものでした。また親政がスタートした時の年号が「建武」だったことから、建武の親政とされています。
新政府の中央政務機関として、政治の重要事項を取り決める「記録所」、そして所領問題を処理する機関である「雑訴決断所」、さらに恩賞を扱う「恩賞方」が設置されました。
また地方には息子の義良親王や成良親王を送り込み、それぞれ陸奥将軍府と鎌倉府の長官として据えています。
後醍醐は朝廷権力の復活を目指しつつも新しい機軸を打ち出しました。それが天皇権限の強化です。国司を復活とともに武家を任じる守護を設置し、その任命権を握りました。
また土地の所有権は天皇による「綸旨(りんじ)」を唯一の根拠にすると取り決めます。すなわち公家や武家にとって大きな関心事である土地の差配を自分に集中させたわけですね。
「天皇親政 = 天皇独裁」という構図が固まりますが、同時に公平な評価が捻じ曲げられることに繋がりました。つまり後醍醐は自分に尽くした者を過大に評価し、そうでない者は評価に値しない態度を露わにしたのです。こうして同じ臣下であっても格差が広がっていき、大きな不満がたまる結果となりました。
臣下だった足利尊氏の反逆によって建武の親政はたった3年でその幕を下ろしますが、失敗の原因にはいくつかの理由が考えられます。
一つは、「土地の保障は天皇の綸旨による」と決めてしまったことです。布告を聞いた人々はこぞって綸旨の発給を求め、そのために偽の綸旨が数多く出回りました。当時流行った落首の中ではこのように批判されています。
「此比(このごろ)都ニハヤル物 夜討(ようち)強盗謀綸旨(にせりんじ)」
もちろん綸旨を発給できるのは後醍醐しかいませんから、自ずと処理能力にも限界はあります。そこで後醍醐の名を騙る偽綸旨が出回ったことで、社会はますます混乱していきました。
そしてもう一つは、これまで違う領域で存在してきた公家と武家を融合させたことです。公家はかつての貴族政治の復活を望み、かたや武家は鎌倉幕府を懐かしんで武家政権の出現を希望していました。そんな両者が相いれるはずもなく、協調して政治を主導することなどできません。
また他にも重税を課したり、貨幣の改鋳をおこなうなど政治不信は高まっていきました。こうした親政に対する不満は蓄積され、とうとう地方武士の爆発へと繋がっていくのです。
北条時行による中先代の乱(1335年)をきっかけに足利尊氏が反逆し、後醍醐が政権を失った時点で建武の親政は瓦解しました。しかし、それは混乱の序章に過ぎません、その後、長きにわたる南北朝時代へと向かっていくのです。
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