娘に宛てた歌を新たに発見! 伊達政宗のもう一つの辞世の句

 昨年末の宮城県のニュースで、伊達政宗のもう一つの辞世の句が見つかったと報じられました。

「くらき夜に 真如の月を さきたてゝ この世の闇を 晴してそ行」

 これは長女の五郎八姫に宛てたものです。死の一ケ月前です。次女の牟宇姫が嫁いだ先、宮城県角田市の角田石川家の文書に記録があったのです。筆まめで手紙を自筆で書くことを大事にしていた政宗。書くことにこだわりもあったようです。

娘への辞世の句や手紙を通して父としての政宗を考えてみます。

政宗の娘たち

 政宗には娘が四人いました。長女の五郎八姫は、政宗と愛姫が結婚してから15年目に授かった大事な姫です。男子が生まれることを期待して「五郎八」という名前を用意していたらしいです。

 しかし、女児が誕生。そのまま「五郎八姫」とつけました。さすがに、読み方は「いろはひめ」と可愛らしくしたようです。後に姫に命名の由来を話せたのでしょうか。

 五郎八姫は、徳川家康の六男・松平忠輝と結婚しました。けれど忠輝が改易されると離縁せざるをえなくなったのです。仲睦まじい夫婦だったので、20代前半の姫はどんなに辛かったでしょうね。政宗のいる仙台に戻りましたが、もう誰とも結婚したくなかったからキリシタンになったそうです。それほど忠輝を愛していたのですね。

 姫はキリシタンになったことで父と対立していたという話もありますが、その後の手紙のやりとりからすると父と娘の心の絆は強かったようです。

 また、次女の牟宇(むう)姫を政宗がとてもかわいがったそうです。側室の子です。宮城県南の角田石川家に12才で嫁ぎました。

 政宗は牟宇宛に仮名文字で手紙を書いていたことが史実にあります。これは驚きでした。戦国武将と名高い政宗ですが、牟宇姫に好かれたくて読みやすい字にしたのでしょうか。家族愛のある政宗ですが、中でも牟宇姫に宛てた手紙は多いです。資料によると46通残っています。政宗が42才の時にできた次女ですから、父としての愛情を文字で伝えたかったのかもしれませんね。

政宗の手紙へのこだわり

 文芸に優れていたと言われる政宗ですが、手紙についてもこだわりがあります。

 大事な手紙は必ず自分の筆で書いたのです。普通の武家では「祐筆」という専門に手紙を書く係がいて、自筆で書く武将は少なかったと言われています。政宗は違いました

 子供たちにも自分の字で文を書くように言っていたそうです。相手との信頼関係を築く上では「自筆の手紙こそが最高の手段」というのが信念だったのでしょう。文字には心が見えますからね。相手の懐に飛び込むのが上手と言われた政宗。全てにおいて誠実さをアピールしたかったのではないでしょうか。

二つの辞世の句

 これまで広く知られている辞世の句(寛永13年1月20日)

曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞ行く

 何も見えない暗闇を照らす月の光のように、自分の信念を光として先の見えない戦国の世を歩いてきたぞという政宗の生き様を表しています。(解釈はいろいろ)

 己の志を持ち続けて乱世を生き抜いた姿が、伊達家のこれからの導きになっただろうという老いたみちのくの殿の言葉だろうと私は受け取りました。

 また、独眼竜だった政宗ですから、人生の半分は暗闇だったとも考えられると悲しさも見えます。武将として生き切った自分だが、果たしてそれでよかったのかと静かなやるせなさが垣間見れます。現代を生きる私たちにも響いてきますね。

 そして、もう一つの辞世の句。昨年、角田石川家の資料で見つかったもう一つの辞世の句は

くらき夜の真如の月をさきたてゝこの世の闇を晴してそ行

 死が近づいた時に長女の五郎八姫に宛てた句が、次女の牟宇のもとにも手紙で伝えられたとされています。角田石川家や仙台藩関係の出来事を記録した「石川家御留(おとどめ)」の中にありました。

 状況として政宗は将軍謁見のため、病身であったが江戸へ出かける前に作ったようです。その頃の将軍は家光で政宗は69歳でした。

辞世の句を比べてみる


① 曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞ行く 寛永13年1月20日

② くらき夜の真如の月をさきたてゝこの世の闇を晴してそ行 寛永13年4月20日

 一見とても似ていますよね。体調の優れなく命の限りを政宗自身わかっていたのは間違いありません。あれほど乱世を生き抜いてきた男の美しき最期の想いが両方に見えます。

 私が感じたことを述べます。

① の「浮世の闇」と②の「くらき夜」

 この似ている言葉から彼の心境の違いを感じました。

 「浮世の闇」には武将としての選択を繰り返し、家臣を引っ張ってきたリーダーとしての政宗があります。戦国武将として生き抜いた彼が家臣に向けての言葉だと受け取れます。

 「くらき夜」は、あえて平仮名表記です。他でもない自分の娘への愛しさを感じますね。娘に添いたい父の最後の本音が伝わります。

① の「照らして」と②の「晴して」

 「照らして」には自分は伊達家のトップの存在であり、藩を守ってきたこと。民にとっては神に近かった人生だったという雰囲気が感じられます。

 「晴して」は人間として家族として守ってきた一人の人間がこの晴れた世を去っていかねばならない淋しさを思わせています。

 家族へ「俺の人生いろいろあったが、みちのくを守ってきたぞ。後はお前たちに頼んだぞ」と柔らかい解釈できるのではないでしょうか。

おわりに

 今回、角田石川家から見つかった資料を見ていると、政宗は外ではかっこいい武将だけれど、内では娘大好きパパだったのだろうと思いました。自分の生き抜いた姿勢をどうしても娘に伝えたくて詠んだ辞世の句なのでしょう。

くらき夜に 真如の月を さきたてゝ この世の闇を 晴してそ行

 政宗の三日月の兜を思い浮かべてしまいます。


【主な参考文献】
  • 角田市郷土資料館『牟宇姫への手紙1~五郎八姫編』(2020年)
  • 角田市郷土資料館『牟宇姫への手紙2~伊達政宗他男性編』(2021年)
  • 角田石川家『石川家御留(おとどめ)』
  • 大崎八幡宮仙台・江戸学実行委員会著『政宗の文芸』(大崎八幡宮、2008年)
  • 角田市HP 角田市郷土資料館
  • 河北新報 令和4年12月28日号

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  この記事を書いた人
さとうえいこ さん
○北条政子に憧れて大学は史学科に進学。 ○俳句歴は20年以上。和の心を感じる瞬間が好き。 ○人と人とのコミュニティや文化の歴史を深堀りしたい。 ○伊達政宗のお膝元、宮城県に在住。

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