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【やさしい歴史用語解説】「武家諸法度」
- 2024/04/02
最初の武家諸法度は、もともと家康が諸大名に提出させた誓紙3箇条に加えて、以心崇伝が草案を作った10箇条を付け加えたものでした。元和元年(1615)に発布されたことから「元和令」と呼ばれています。
伏見城に諸大名を集めて崇伝に朗読させたものですが、将軍が大名に対して命令し、諸大名はこれを順守するという形式を取りました。
13箇条しかありませんから、内容はいたってシンプルです。「武士らしく文武の道に励め」だとか、「謀反人や罪を犯した家臣は追い出せ」とか、「倹約を心掛けよ」といったことが中心で、決して難しいことはありません。
とはいえ重要なことも含まれています。それが「居城を修理する時は届け出ること」や「国主は政治をうまくやれ」といったことでした。
正式な手続きを踏まず、広島城を修築した福島正則は領国を召し上げられましたし、幕府上層部にいた本多正純も表向きは石垣の無断修築が原因で改易されています。
また、お家騒動や家臣の統制がうまくいかないケースも処罰の対象となりました。例えば加藤清正の跡を継いだ忠広は配流となっていますし、山形の最上義俊もまた騒擾事件を起こしたことで改易となりました。
すなわち大名にとって藩は預かり物に過ぎず、それを監督するのが幕府だということになります。もし藩がうまく治まらなければ藩主として不適合のレッテルを貼られ、他の大名が代わりを務めたり、幕府の直轄地になったりしました。
当初の武家諸法度が適用される範囲は大名のみでしたが、旗本や御家人には「諸士法度」が規定されていました。やがて5代将軍・綱吉の頃に諸士法度が統合され、「武家諸法度」に統一された経緯があります。
また代々の将軍は、就任後に武家諸法度を諸大名へ公示する義務がありました。ただし7 代・家継と 15 代・慶喜のみはしていません。家継はあまりに幼少でしたし、慶喜が将軍に就任した時は京都にいたからです。
武家諸法度は時代の変化に応じて改定が加えられ、幕末に至るまで6度も変更されています。
例えば寛永12年(1635)の寛永令では、それまで外様大名のみだった参勤交代が、譜代大名にも適用されて義務化されました。
また宝永7年(1710)の宝永令では、新井白石が法令を起草したことで儒教思想が大きく取り込まれています。
「賄賂をもらって政治を乱すな」とか、「政治は心を尽くしておこない、決して民衆から恨みを買うな」など、文治政治の精神が垣間見えるようです。
そして幕末期にあたる安政元年(1854)に出された法令では、ついに大船の建造が許可されました。相次ぐ外国船の来航に危機感を抱いた幕府は、諸藩に海防意識を持ってもらうべく法度を改定したのです。
このように武家諸法度の変遷を追っていくと、当時の社会問題や世相が見えてくるから不思議なものですね。
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