佐久間象山の息子は新選組に入隊していた!近藤・土方も困った傲慢ぶり
- 2023/06/13
新選組には、さまざまな人間が入隊してくる。侍になりたくて仕方ないという商家や農家の息子、浪人生活に飽き飽きした武士、おのれの腕で立身出世を願う者。今回紹介する隊士は、父の仇を討つために入隊してきた。しかし、その情熱はいつの間にか冷めてしまい、鬼の副長・土方歳三でさえ持て余すとんでもない隊士になってしまうのだ。
彼の名は、三浦啓之介。幕末の兵学者・稀代の天才とも言われた佐久間象山の息子である。あまりにも偉大な父を持った三浦啓之介の生涯は、父の仇を討つどころか、父の名に振り回されたものであった。
彼の名は、三浦啓之介。幕末の兵学者・稀代の天才とも言われた佐久間象山の息子である。あまりにも偉大な父を持った三浦啓之介の生涯は、父の仇を討つどころか、父の名に振り回されたものであった。
佐久間象山とはどんな人物か
まずは三浦啓之介の父・佐久間象山について簡単に紹介しておこう。象山は、信州松代藩(現・長野県長野市松代)出身。兵学者であり、儒学者・思想家・科学者の顔も持っていた。わずか3歳で読み書きができたという話もあるほどの天才で、その上わんぱくな子供だったそうだ。
15歳で元服すると、松代藩の儒学者・鎌倉桐山の私塾に通い始め、藩主・真田幸貫(ゆきつら)の子である幸良の教育係にも任命される。しかし、生来自信家で自分の意見を曲げず、歯に衣着せぬ物言いだったため、幸貫から疎まれ、閉門を命じられてしまう。
しばらくのちに赦され、象山は江戸へ出てきた。天保4年(1833)のことである。儒学者の佐藤一斎の門をたたく。その才能は高く評価され、6年後には私塾を開いている。
海防八策
日本の周辺では、アヘン戦争や外国船が日本周囲の海に出没するなど、次第にきな臭くなっていた時代。象山は、老中海防掛に就任した藩主幸貫により、顧問に抜擢される。近代兵学や砲術なども学び「海防八策」を著した。「海防八策」には、国を守るためには、外国船を購入し、操船技術を習得することが必要であるという象山の考えを元に、当時としては非常に進歩的な国防策が書かれている。のちに勝海舟が幕府に海軍の必要性を訴えたのも、「海防八策」の影響だ。
象山の門人たち
象山の下の集った人々の中には、幕末の偉人たちが名を連ねている。・勝海舟
・吉田松陰
・宮部鼎蔵
・河井継之助
・坂本龍馬
・橋本佐内
・真木和泉
会津藩の山本覚馬や薩摩藩の西郷隆盛も、象山に会い、その影響を受けたと言われている。象山がいなければ、明治維新は来なかったのではないかと思うほどだ。
あまりにも偉大で、しかし自信過剰で尊大な言動を繰り返す父親を持った息子。他人事ながら気の毒に思えてくるのは私だけではないはずだ。
象山の息子・三浦啓之介
偉大な天才・佐久間象山には、順(勝海舟の妹)という正妻のほかに、お蝶・お菊と言う妾がいた。そのうちの1人、お菊の産んだ子で三浦啓之介こと、佐久間格次郎だった。生年は嘉永元年(1848)である。実母のお菊は格次郎を生むとすぐに家を出てしまったが、正妻の順と妾のお蝶が格次郎をとても可愛がったらしい。格次郎が生まれて間もなく、ペリー来航の際、海外密航を企てて失敗した吉田松陰に連座した形で、象山は松代での蟄居を命じられる。以後、西洋の研究をすること9年、象山は攘夷の愚かさを学び、開国論に変じた。
科学者でもあった象山は、自分の優秀な遺伝子を残すことについても執心していたらしいが、子どもの教育には無頓着だったようだ。
京へ
文久2年(1862)に象山の蟄居が解かれる。そして、元治元年(1864)、16歳になった格次郎を伴って上洛した。上京した象山は、幕府要人らに公武合体・開国策を説いて回るが、その言動に、尊攘浪士たちが激怒した。7月11日、佐久間象山は河上彦斎(げんさい)らに斬殺された。残された格次郎は、松代藩邸に呼び出され、家名断絶を申し渡される。途方に暮れる格次郎に救いの手を伸ばしたのは、山本覚馬だった。実は象山、山本覚馬に万一の場合は格次郎を頼むと言い残していたらしい。おのれの言動の激しさ、危うさに自覚はあったのだろう。
父・象山の仇を取るべく新選組へ
覚馬は、佐久間家家名の再興のため、格次郎に象山の敵討ちを勧める。とはいえ、相手は人斬り彦斎である。そこで思いついたのが、会津藩お預かりの新選組だ。新選組局長・近藤勇は義侠心に厚い。格次郎の仇討ち話に、快く入隊を許可した。格次郎は、義母・順の姓と伝わる三浦、父・象山の名である啓(ひらき)を取り、三浦啓之介と言う名の新選組隊士となった。土方もお手上げの傲慢隊士
ところがやはりあの象山の息子、プライドだけは高いうえに正規の隊士としてではなく、客人のような扱いを受けたことも災いした。啓之介は図に乗ったのである。粗暴でわがままな振る舞いは、たびたび隊士とのトラブルを引き起こす。だが啓之介は、近藤にひいきされている。普通ならとっくに士道不覚誤で切腹させられていてもおかしくないが、さすがの土方も象山の息子であり、会津藩山本覚馬の口利き、そして勝海舟の甥にあたる啓之介を処断することはできなかった。これはあくまで噂だが、面白い話が伝わっている。
───ある時、啓之介はトラブルを起こしたある隊士を背後から斬りつける。しかし、相手はかすり傷程度だった。剣の腕もなく、親の威光だけでエラそうな態度をとる啓之介に、沖田総司が動いた。
無邪気にニコリと笑った総司は、啓之介に「今度飲みに行きませんか?」と。笑顔の奥に凄まじい殺気を感じた啓之介は、とっとと新選組を逃げ出した。───
堪忍袋の緒が切れた沖田総司が、自ら切ろうとしたほどの乱暴ぶり。慶応2年(1866)、啓之介は、諸士取調兼監察の芦屋昇とともに新選組を脱走した。脱走は隊規により切腹。おそらく形だけは捜索したのだろうが、啓之介たちが捕まることはなかった。土方としては「やっと消えてくれた」という思いの方が強かったかもしれない。
勝海舟に恩を売った新選組
啓之介の件で、結構な迷惑をこうむった新選組に対し、勝海舟は礼金を渡している。近藤・土方へ五百疋。(山本覚馬へも五百疋)、わずか2両ほどの金額だ。この金額が迷惑料としては安すぎないか?近藤・土方がこの金額をどうとらえたかはわからないが、とにかく新選組は、幕臣勝海舟に恩を売ることができた。あの時の恩を返せ!
ときは下り、慶応4年(1868)4月。戊辰戦争の最中、近藤勇は官軍の捕虜となる。土方は近藤を救い出すため、勝のもとへ走っている。「あの時の貸しを、返させるのは今だ。」
土方の心の片隅に、そんな気持ちはなかっただろうか。しかし勝の方が上手だった。あの時の五百疋で話は片付いている。勝が近藤助命のために動くことはなかった。
明治維新後の啓之介
話を啓之介に戻そう。啓之介は芦屋とともに松代まで戻って来る。しかしそこでも悪事を働き、ついに御用となった。彼の身柄を引き取ったのは、勝海舟である。あの勝海舟だ、愚かな甥をさぞ怒鳴りつけたことだろう。親の七光りで生きる
勝海舟は福沢諭吉の開いた慶應義塾に口利きをして、啓之介を入学させる。しかし今度は女性問題を起こして退学となった。どこまで愚かなのか。しかし、無事に明治維新を生き延びた啓之介は、名を佐久間啓(いそし)と改め、象山の息子、そして勝海舟の甥であることを最大限に利用し、司法省に入省した。最期まで健在だったバカ息子ぶり
その司法省では、警官とトラブルを起こし懲戒免職となる。勝海舟もあきれるバカ息子ぶりである。今度は松山県(現・愛媛県松山市)の裁判所判事に就任する。ここまで来るとさすがと言うべきなのか。しかし、彼の悪運もここで尽きたようだ。明治10年(1877)2月26日。佐久間啓は、ウナギを食べて食中毒を起こし、あっさり亡くなった(溺死という説もある)。享年31歳。
あとがき
優秀な父を持ち、そのDNAを受け継いだであろう啓之介。しかし彼は自らの才能を生かすことなく、この世を去った。ただわがままで悪知恵の働く愚かな息子として名を残したことを、佐久間象山はどう思っているのだろうか。子どもを育てるということは、ただ食事をさせ、可愛がるだけではない。私も2人の子を育て上げた経験を持つが、人間をまともに育てるということは、本当に大変だ。自分自身も親として成長しなければならない。
たとえ天才であろうと、私のような平凡な人間であろうと、子どもを育てるということに関しては、同じスタート地点だと感じる。今回は、人を育てるという最も基本的なことも、歴史から学べるのだという実感をもった。
【主な参考文献】
- 山村竜也『真説 新選組』(学研プラス、2001年)
- 前田政記『新選組全隊士徹底ガイド』(河出書房新社、2004年)
- 『新撰組始末記 付録 西村兼文』(新人物文庫、2013年)
- ジェイビー、青木健『驚愕!歴史ミステリー 坂本龍馬と幕末暗黒史』(コズミック出版、2009年)
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