「小松帯刀」大河ドラマ『篤姫』や『西郷どん』にも登場した薩摩藩家老!大政奉還の立役者にして、明治維新の功績者の生涯
- 2023/12/01
明治維新において、特に功績があった人物を「維新の十傑」と称します。薩摩藩においては、西郷隆盛や大久保利通がクローズアップされがちですが、彼ら以上に功績を挙げ、若くして世をさった人物がいました。それが薩摩藩家老の小松帯刀(こまつ たてわき)です。
帯刀は島津一族に繋がる一族に生まれ、幼い頃から学問に精励してきました。早い時期から国防に危機感を抱き、長崎に遊学。国父である島津久光に重用されて藩政に重きをなします。京都では参預会議(1863~64)に陪席、薩長同盟の締結(1866)にも尽力するなど、国家の大計にも深く関与しています。
やがて時勢が討幕に傾くと、大政奉還(1867)を建議。二百年以上続いた江戸幕府を終焉に追い込んでいます。明治維新後は要職を歴任しますが、思いがけない結末が帯刀を待っていました。
混乱する時代の中で、帯刀は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。小松帯刀の生涯を見ていきましょう。
帯刀は島津一族に繋がる一族に生まれ、幼い頃から学問に精励してきました。早い時期から国防に危機感を抱き、長崎に遊学。国父である島津久光に重用されて藩政に重きをなします。京都では参預会議(1863~64)に陪席、薩長同盟の締結(1866)にも尽力するなど、国家の大計にも深く関与しています。
やがて時勢が討幕に傾くと、大政奉還(1867)を建議。二百年以上続いた江戸幕府を終焉に追い込んでいます。明治維新後は要職を歴任しますが、思いがけない結末が帯刀を待っていました。
混乱する時代の中で、帯刀は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。小松帯刀の生涯を見ていきましょう。
愛に恵まれなかった少年時代
天保6年(1835)、小松帯刀は薩摩国鹿児島城下にある喜入屋敷において、喜入領主・肝付兼善の四男として生を受けました。生母は島津久貫の娘です。肝付家は、一所持と言われる薩摩藩でも指折りの家柄でした。南北朝から戦国時代にかけて大隅国を拠点に勢力を築き、江戸期に入って島津家の重臣として活躍していました。家老を輩出するほどの家であり、藩政に大きな力を持っていたのです。
帯刀の少年時代は不遇でした。次兄は夭折し、両親は三兄の兼之を寵愛。さらに帯刀の乳母も短慮な性格であったため、十分な愛情を受けずに育ちました。しかし帯刀は自らの逆境にもめげず、高みを目指して研鑽を積み始めます。
漢学者・横山安容に入門し、儒学を修めました。13~14歳頃には、学問の才覚は周囲が認めるほどとなります。しかし昼夜を問わずに勉学に励んだ結果、17歳ごろから病に伏せがちの日々を送ることとなります。帯刀は元々虚弱な体質だったため、体質改善にも取り組み始めました。
武術では演武館に入門。病弱の身でありながらも薩摩藩の御家流でもある示現流剣術を学んでいます。湯治にも出向き、出先でであった人々から様々な知識を吸収するなど、実学的試みも行ないました。加えて帯刀は歌道にものめり込んでおり、八田知紀に学び、自らを「香雪齋」と号するほどの腕前と成っています。
帯刀は両親の愛に恵まれず、病弱な身体でしたが、類稀なる才能と弛まぬ努力をもって、幕末屈指の政治家へと上り詰めていくきっかけを得たのです。
小松家の家督を相続する
帯刀の優れた能力は、やがて藩にも知れ渡ることとなります。安政2年(1855)正月、帯刀は奥小姓・近習番勤めを拝命。藩主側に近侍する立場となりました。5月には江戸詰めを命じられて在府。わずか二ヶ月の期間でしたが、道中に帯刀は多くの歌を作っています。薩摩とは違う環境に触れつつ、自らの見聞を広めていました。
翌年には吉利領主・小松清猷(きよみち)の養子となって家督を相続。清猷の妹・近(ちか)を正室に迎え、小松家当主となりました。帯刀は近よりも、3~7歳ほど年下だったと伝わりますが、愛妻家として仲睦まじく暮らしました。
一家の主となった以上、何もなければ太平に暮らせていたはずですが、時代の流れは帯刀を放っておきません。安政5年(1858)には薩摩藩主・島津斉彬が病没。斉彬の甥・島津忠義が藩主となり、久光(忠義の実父)が国父として藩政を掌握します。
帯刀は当番頭兼奏者番を拝命。藩主と家臣の取次を担当する役職を担当することとなりました。さらには集成館事業の管理や貨幣鋳造も担当。万延元年(1860)には弁天波止場受持を拝命しています。
帯刀は、いわば藩主に近侍する立場から殖産興業までを担当する役職まで経験していました。藩主というより、国父・久光の覚えがめでたかったことは確かなようです。藩政を担う人物の一人として、かけられた期待の大きさが垣間見えますね。
薩長同盟締結を成し遂げる
西洋軍艦や砲術の軍事訓練を積む
文久元年(1861)1月には、藩命によって長崎に出張。軍艦操縦や砲術を学んでいます。6月には帰国し、実際に水雷爆発の実演を行いました。当時の先進的な軍事技術は、国防の面でも重要視されたものでした。帯刀は国防に危機意識を持ち、実践的立場となって行動していたことは確かなようです。その後、長崎での経験が評価された帯刀は、10月には御改革御内用掛を拝命。久光の側近として藩政改革に取り組むこととなります。
このときの配下には、大久保利通がいました。薩摩藩で培った人脈や能力は、その後の帯刀の人生を大きく決定づけていきます。引いてはそれが、明治維新に繋がる原動力となりました。
当時の久光は、公武合体運動を推進する立場です。公武合体は、朝廷と幕府の関係を強化し、諸藩の連携によって国難を乗り切ろうという思想でした。翌文久2年(1862)、帯刀は久光の上洛に随行し、江戸に上って幕政改革を要求する久光を陰ながら支えています。帰国後には家老職を拝命。事実上、藩政を指揮する立場となりました。
なお、帯刀は政治だけでなく、軍事活動にも関わっています。翌年の薩英戦争(1863)では、水雷を鹿児島湾に配置。薩摩軍の指揮者の一人としても活動しています。
参預会議や薩長同盟の調整役
京都における帯刀の活動は、その後の日本を大きく変えるきっかけとなりました。文久3年(1863)、京都に参預会議が成立。久光も参預の一員として政治決定を行う立場となります。帯刀は会議に陪席し、藩政の傍ら、朝廷や幕府、諸藩との連絡や交渉役を務めました。いわば帯刀は、間接的とはいえ、国政においても大きな影響力を持つ立場となっていたのです。
元治元年(1864)には、京都から追放されていた長州藩勢力が挙兵、いわゆる「禁門の変」が勃発します。京都御所周辺で長州藩と徳川幕府勢力が矛を交える事態となったこの戦いで、帯刀は幕府側として薩摩藩兵を率いて出陣。長州兵を蹴散らすなど最前線でも指揮しています。
しかし帯刀は、長州藩との関係修復を企図していました。薩摩藩は国政を主導する上で、いずれは幕府と対立することは確実です。幕府に対抗する上で、薩摩藩が手を結ぶ有力な勢力は他に見当たりません。そこでまず帯刀は、土佐藩脱藩の坂本龍馬と親密な関係を結びます。
慶応元年(1865)に坂本龍馬に亀山社中(のちの海援隊)設立を後援し、薩摩藩と長州藩の間に入らせようとしていたようです。さらには井上馨らを長崎の薩摩藩邸に隠匿。長州と繋がりを持つ努力を続けていました。
こうした帯刀の努力は、やがて身を結ぶこととなります。慶応2年(1866)1月、京都の帯刀の屋敷に桂小五郎(木戸孝允)が滞在。無事に薩長同盟が締結されました。この同盟は、のちの倒幕活動の根本となるものでした。
大政奉還や明治維新での功績
イギリスと薩摩藩を結びつける
帯刀の戦略は、国際的な視点を持っていました。薩英戦争(1863)を機会に、イギリスと薩摩友好関係を締結。のちの倒幕運動に大きく資することとなります。帯刀は五代友厚らをイギリスに留学させ、イギリス公使・パークスを薩摩に招いて久光と会談させています。さらには兵庫開港を利用し、大和交易コンパニーを設立。貿易のさらなる拡大に努めています。薩摩藩は順調に国力を増しており、来るべき討幕の戦の準備は整っていきました。そして慶応2年(1866)、幕府は第二次長州征伐を決行。結果、大敗を喫してしまいます。幕府の権威が大きく失墜したことで、討幕派の動きは活発化していました。
翌慶応3年(1867)、帯刀は政局を巡って諸藩と交渉することになります。土佐藩の間では、大政奉還や討幕を見越して同盟を締結。四侯会議では久光を補助するなどしています。
討幕の戦いは、西郷や大久保がクローズアップされがちではありますが、それまでのお膳立ての大部分を担った帯刀の周旋活動が、非常に大きな役割を果たしていたことは見逃せません。
将軍に大政奉還を勧告
同年、帯刀は薩摩の代表として将軍・徳川慶喜に将軍職辞職を上申。摂政・二条斉敬に大政奉還の上層を受理するように迫っています。なお、大政奉還を前に、坂本龍馬が推薦した新政府における人事構想の中に、”小松帯刀”の名も挙がっています。ちなみに推薦された人物は、小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・広沢兵助の5名と、そうそうたる顔ぶれです。当時の帯刀がいかに重要人物であったかがわかりますね。
結果、慶喜はやむなく大政奉還を断行しましたが、討幕の戦いは終わりません。帯刀は先を見越して帰国し、藩主・忠義の率兵上洛を主張しています。そして年が明けた慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いが開戦。薩摩藩は錦の御旗を掲げて官軍となりました。大事な一戦でしたが、帯刀は病を得て上洛を断念しています。
明治政府が樹立されると、帯刀にも重要な役職が任されました。参与を拝命して政治決定に参加。さらに総裁局顧問や外国事務掛などの要職を歴任していきます。明治政府において、特に帯刀が活躍したのが交渉ごとでした。
日本初の西洋式ドックを築く
帯刀は江戸幕府のフランスへの借金を返すためにイギリスから借り、横須賀造船所の差し押さえを阻止しています。さらに五代友厚やグラバーらと協力し、日本初の西洋式ドック小菅修船場を建設。日本の近代海運の発展にも尽力しています。大坂での最期
しかし明治に入った頃から、帯刀は体調を崩し始めます。オランダ人医師・ボードウィンは帯刀を診察。左下腹部に腫瘍の存在を認めています。切除は困難、とボードウィンは判断しました。いわば事実上の余命宣告です。しかし帯刀は、自らの仕事に使命感を持って臨んでいました。変わらずに職むに励んでます。
帯刀が最後の仕事として関わったのが版籍奉還でした。明治2年(1869)1月、帯刀は版籍奉還の申し出を大久保に催促。同月には鹿児島に帰藩しています。
2月にはまもなく領地と家格の返上の願いを上申。5月には政府における公職を退きました。版籍奉還においては、久光が頑強に反対を表明していました。しかし帯刀は久光を説得し、自らの領地返上をもって模範を示しています。
しかし9月には腫瘍が悪化。やむなく大阪に家を借りて療養生活に入りました。明治3年(1870)1月、大久保や木戸が帯刀を見舞っています。しかし既に帯刀は自分の死を覚悟しており、遺言書も認めていました。その半年後の7月20日、帯刀は側室の三木琴に看取られながら世を去りました。享年三十六。墓所は鹿児島の小松家歴代墓所にあります。
【主な参考文献】
- 高橋直助『小松帯刀』(吉川弘文館、2012年)
- キリン歴史ミュージアムHP ビールを愛した近代日本の人々・小松帯刀
- 吹上焼酎株式会社HP 幻の名宰相 小松帯刀
- 国立国会図書館HP 近代日本人の肖像 小松帯刀
- 鹿児島市観光ナビHP 小松帯刀像
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