戦国北条宗家の隠れた力…北条氏御一家衆「久野北条氏」の役割と遺産
- 2024/04/18
宗哲はじめ、その子孫は「久野北条氏」と呼ばれています。今回はそんな久野北条氏の歴史についてお伝えしていきます。
久野北条氏を代表する北条宗哲
箱根権現別当
北条宗哲は北条宗瑞(早雲)の末子にあたり、小田原城近郊の久野に館を構えていたことから「久野殿」と呼ばれています。宗哲が没したのは、天正17年(1589)ですから、豊臣秀吉による小田原攻めの直前まで生きていました。北条氏の歴史は、宗哲と共にあったといっても過言ではありません。
もともと宗哲は箱根権現に入寺しており、宗瑞が隠居した際の所領注文には知行高が4400貫文であったと『箱根権現文書』には記されています。ここには箱根権現の領地も含まれており、先々は宗哲が箱根権現の別当に就任する予定だったわけです。
実際に宗哲が別当に就任したのは天文3年(1534)から同7年(1538)にかけてであったことが『為和集』から確認できます。宗哲という法名を称したのは天文5年(1536)からで、「幻庵」を号したのは天文14年(1545)からです。
ちなみに宗哲には別に古義真言宗派の「長綱」という法名もありますが、こちらは天文15年(1546)まで併用していました。
御一家衆の代表としての役割
宗哲は大永4年(1523)に出家していますが、北条氏の軍事面には出家してからも関わっており、天文4年(1535)の甲斐国で行われた山中合戦や武蔵国で行われた入間川合戦では大将のひとりとして参加しています。天文11年(1542)に北条氏康の弟で、御一家衆のひとりだった北条為昌が病没すると、為昌が治めていた領地のうち武蔵国小机領を継承し、北条氏の領地支配にも深く関わっていくのです。氏康には北条氏堯という弟もいましたが、幼かったため、宗哲が御一家衆の筆頭格となったのです。
宗哲に課せられた役割は軍事面、政治面だけではなく、新世代の育成面もありました。宗哲は氏堯の後見人を務めています。また、北条氏綱の娘を正室に迎えた武蔵世田谷足利氏御一家の吉良頼康は、吉良氏朝を養子にしていますが、この氏朝の後見人も務めました。
氏朝の正室には氏康の娘(養女であり、実際は宗哲の娘と考えられています)には輿入れしていますが、その際には心得を記し娘に与えた「宗哲覚書」が有名です。このように宗哲は奥のあり方から指南していたわけです。
あらゆる面において北条宗家を支え続けたのが宗哲であり、久野北条氏であったことがわかります。歴代の北条宗家当主が最も信頼したのが、久野北条氏だったのではないでしょうか。戦国の世にあって、それだけ重要な立場にいながら、二心をまったく抱かず、北条氏の発展に尽くした宗哲のような存在があったからこそ、北条氏は関東の覇者となり得たのでしょう。
宗哲の家督を継いだ息子たち
そんな北条宗哲から小机城を受け継いだ人物が、北条三郎です。弘治2年(1556)には『北条文書』に登場しており、その時期には家督を継いでいたと考えられますが、この三郎が宗哲の嫡男であったのかどうかは定かではありません。というのも翌弘治3年(1557)には病没してしまっており、素性が明らかになっていないからです。
三郎には子はなく、家督は宗哲のもうひとりの子の北条氏信が継ぎました。ただし、小机領については継承せず、氏康の弟の氏堯が継いでいます。つまりここで久野北条氏の領地は縮小したわけです。
もともと小机領は為昌が治めていましたから、もうひとりの弟である氏堯が独り立ちできるまでは宗哲が預かっていたという流れでしょう。氏堯の後見人は宗哲ですから、このあたりの引き継ぎは問題なく行われたと考えられます。
しかし、この氏堯も永禄6年(1563)ごろに病没しており、小机領は再び久野北条氏の氏信が継承するのです。氏信は永禄元年(1558)の古河公方足利義氏の小田原御成の際に三郎の次の四番目に給仕を務めており、このときすでに御一家衆の中でも重要な位置にあったことがうかがえます。氏信は小机領だけでなく、武蔵国河越城も氏堯から継承されています。
北条氏と武田氏が対立し、駿河国を巡って戦を始めると、氏信は前線拠点である蒲原城を守りました。永禄12年(1569)5月、今川氏真が北条氏側に引き取られると、すぐに氏信は蒲原城に入ります。しかし12月には武田勢の総攻撃を受けて蒲原城は落城、氏信をはじめその弟の融深も戦死してしまいます。融深は箱根権現に入寺しており、将来は別当職を継承する予定でした。
このように宗哲自身は長命だったものの、その間、後継者たる息子たちや、我が子のように育成してきた氏堯などに先立たれているのです。内心複雑な思いがあったことでしょう。それでも久野北条氏がその存在感を失わなかったのは、宗哲が生き続け、北条宗家を支え続けたからです。
氏信の子が幼かったため、氏康の六男を婿養子に迎えて家督を継がせますが、その三郎(後の上杉景虎)は元亀元年(1570)、上杉氏との同名締結のため上杉謙信の養子となってしまいます。あっという間にまたも当主不在となる事態に、宗哲も驚いたことでしょう。そのため宗哲の娘は三郎と離別して小田原に残り、北条氏光(氏康の子とされていますが、氏堯の子ではないかと考えられます)に再嫁したのです。
こうして宗哲の後ろ盾のもと、氏光が小机領を継承しました。ただし、領主が短期間にどんどん入れ替わり混乱する中で、小机領が問題なく統治できていたのは、宗哲の存在があったからです。
最終的に宗哲の家督を継承した北条氏隆
二人の息子を失い、養子も上杉氏に移ってしまったことで、久野北条氏は宗哲が再び当主となったわけですが、氏信の嫡男である幼名菊千代(後の北条氏隆)が成人を遂げたのを機会に、完全に隠居し、すべての領地を氏隆に譲っています。これが天正10年(1582)ごろであったと考えられます。天正11年(1583)以降は史料から宗哲の名は見られなくなります。氏隆は天正18年(1590)の秀吉の小田原攻めの際には、北条氏政、氏直父子に従い小田原城で籠城しています。小田原城落城後は、氏直に従い高野山に登り、後に赦免されて主家し、釣庵宗仙と号しました。子はなく、讃岐国丸亀城主の生駒近規に仕え、慶長14年(1609)に亡くなっています。ここで久野北条氏は断絶しました。
おわりに
こうして振り返ってみると、久野北条氏の歴史は宗哲の歴史といえるでしょう。軍事面で支えつつも、箱根権現別当として京都の僧侶や公家、文化人との交流も盛んで、文化や教養、育成の面でも重要な立場にあったのが久野北条氏です。氏信の正室は公家の西園寺公朝の娘で、北条御一家衆の中で公家の娘を正室に迎えたのは氏信だけです。久野北条氏がとても特殊な立場にあり、京都に対する外交の役割を果たしていたこともわかります。
親子兄弟が殺し合う戦国時代にあって、北条氏一門の結束が固かったのは、宗哲をはじめ宗哲の教養や信念を受け継いだ久野北条氏の存在があったからこそだったのではないでしょうか。
【主な参考文献】
- 黒田基樹『戦国北条家一族事典』(戒光祥出版、2018年)
- 黒田基樹『北条氏康の家臣団』(洋泉社、2018年)
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